title:『

天と地の迫間


文字数:51916文字(51895)
行数:2152行・段落:614
原稿用紙:130枚分(400文字詰)
1章:VV   ★2章:帆翔   ★3章:産声   ★4章:迫間   ★5章:緩歩   ★6章:墜地   ★7章:うばう   ★8章:狂想   ★9章:二つは一つ   ☆→writing

天と地の迫間:第四部

第三部:明日の産声へ←          →第五部:緩歩のあしあとへ

(注意:以下の文は悪魔的表現が加わり多少過激で不快な表現が含まれます)

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天と地の迫間(天国と地獄) 《もくじ》
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1,2、3,・・4,5!
キキィーーーーッッ!!!!
高音の金切り音のすぐ後に、けたたましい衝突音と黒煙が耳と目を塞いだ。
辺りにはかすかな声と炎が広がっている。
重い重い金属の下敷きになった黒い物体はもう動かない。
辺りには誰もおらず、そこにあるのは、命わずかのかすれた声と、既に息の途絶えた骸。
そこに見る光景はまさに地獄絵図であった。

曲がったガードレールの上に、ひとつだけぽつんと人影がある。
少年は何も言わず、その瞳の中には地獄絵図がただひたすらに映っていた。
静寂とガスの不完全燃焼を混じらせた鼻のつく臭い。

地上に神など存在しない。そう、今あるのはまさに現実にある地獄そのものではないか。

多くの人間が歴史の中でそう嘆き、最後の咆哮を上げ地獄絵図の中で死んでいった。
この世のどこにも神など存在しないのだと、そう絶望と嘆きと、
そして僅かな願いを胸にいだき、大地は恨みと絶望に染まっていった。
人の嘆きを聞いて大地も嘆き、大地の嘆きは天地に染み渡った。

天使たちはどうすることも出来なかった。ただ彼らのそばに居、彼らとともに血の涙を流した。
人々の裏切りと離反が始まった。
人間たちは天界から離れた。

現実に地獄ゲームが始まった。

今も地獄ゲームは絶賛拡大中だ。
悪魔たちはこの世に地獄を広げている。
人々の心は神から乖離した。
もとのあるべき姿を知るものは殆ど失われた。

悪魔たちの中にはかつての世に絶望し、神を見捨てた者たちも大勢いる。
神は救ってはくれない。
神は何も施さない。
神は何もなさない。
宗教は、誰も助けられない。

敬虔な信者と聖なる行いを率先し嘗て聖人と呼ばれた者たちが、
大地で起きた地獄絵図を目の当たりにし、神を見失った。
現実で起きることはそれほどの衝撃があった。
何も見ない、信じさせない。そうすることで生きて行ける。

かつての出来事により多くの人間が闇に堕ちた。
地上から神は消えた。

胸が砕け散るほどの絶望と嘆きを、何度味わったことだろう。
この世に神はいないのだと、何度確信したことだろう。
争いの中で致命的に抉られてしまった心と、体。
もう動けぬ体で私は何を見たのか。


私は死と対面して光を見た。
どうして今まで救ってくださらなかったのか。
しかしどうでもよい、ここに光はあったのだ。

この世のどこにも神などいはしないんだ!
そう言って死んでいった私の同胞たちに見せてやりたかった。
ここにもともと、すべてがあったんだと。
ほかのどこにもありはしなかったが、
ここにもともと存在していたのだと。

長い長い旅を経てここに辿り着いた。
私もお前も、一緒に行こう。

神は何も語りはしないが、私に道を指し示してもくれず、
救ってもくれはしなかったが、常にそこに存在し、私が在るのと同時にそこに在った。

もとあった神を忘れ、地獄に赴き、私はまた帰還することが出来た。
私は光となりて、皆の帰り道を示そう。




地上には雨が降り出していた。
悲しみの雨、怒りの雨、それとも、罪を覆い隠す雨。
ガードレールの上の少年は消えていた。

その場にはパトカーや救急車と多くの遺族が集まっていた。
一時前まで静謐であったそこは、一変し悲しみの声で埋め尽くされた。
死者56人、きっかけはトラック運転手の不注意だと報じられた。
衝突事故としては異例の死者数であった。



人の無意識の中に突如入り込む悪魔がいるという。
緩慢とした意識の中で、それはいつも起こる。
それは悲しみを引き起こすため。
お前に絶望をプレゼントしよう。

家族を突然失った者の絶望が、どんなものだか知りたくはないかい?
それはテレビで報じられるより、本や物語で読むよりも、もっともっと酷いものさ。
それをキミに味わわせてやるよ。
悪魔はいつもそう語りかける。
悪魔はよくよく知っている。
それによって引き起こされる罪の意識と、絶望と苦痛の酷さを。
生きる目的を見失い、どこをどう歩いてゆけばいいのかわからなくなる。

昨日まで普通に家族と団欒を過ごし、朝食を食べて出勤した者が、
ある時突然家族を失った。
喉に刃を突きつける光景を見て、悪魔はほくそ笑む。
そうだ、やれ、やってしまうんだ。
そう、それでもう、取り返しの付かないことになれるよ。


・・・もう少しじゃないか!どうして止めるんだ?勇気が無いのか?意気地なしめ。
悪魔が優しく両肩をポンポン、とたたき、勇気づける。
次はやれるさ。次こそ楽になれる。

もう人の家族をみて妬まなくて済むぞ。殺したいなんて思わなくて済むさ。
いや、それとも、誰も自分の絶望をわかってくれないなら、同じにしてみるのはどうだ?
道を呑気に親子連れで歩いている憎たらしい仲睦まじい家族を殺そう。
そうしたら仲間が増えるぞ。
自分の心境をわかってもらえる。もう、周りから白い目で見られはしないさ。
仲間が増えるんだからな。

幸福をうにしている奴を一人一人引きずり落として行けば、仲間は増えて、
やがて目障りな奴なんてなくなるぞ!
悪魔は四六時中そんなことを囁いていた。
人間は、それも一理あると思うようになる。


だが悪魔は心のなかで思っていた。


まあ、そんなことをしたって、お前は一生助からないさ。
お前は俺の仕掛けた事故に引っかかってから破滅の道を歩み始めたんだ。
もう後戻りなんて出来ないさ。
ここでヤケでも起こして、人を数人殺傷でもしてくれれば、道は確実になる。
お前はますます地獄行きってわけさ。

俺が悪いんじゃない、俺に事故を引き起こさせるのを、何一つ止めなかった、
お前のいう神と天使どもを恨むんだ。


ふつうの幸せな人間たちには目に見えないところで、今も悲しみの連鎖は延々と増幅している。
この世には神も仏もいなければ、生きる希望も価値も無い。
生まれてこなければよかった。

そうつぶやく人間たちが、闇に隠され、食べ物も与えられず、明日をも知れぬ身で、
常に何かに打ち震えながら生きている。
しかし彼らにスポットライトが当たることは無い。
底知れぬ社会の底辺に渦巻く闇は、消えることがない。
その闇は、その深遠さのあまり誰も気づくことが出来ない。
それは日本にも、世界中のどこにでも存在する。
だがあなたたちは見えない。道の傍らで聞こえる呻き声に、あなたたちは気づくことが出来ない。
その闇は触れることも、気づくことも、見る機会も無いために、ずっと一般とは隔離されたところにあり、
誰も気づかないがために、彼らは永遠に救われることはない。

唯一救える者たちがいるとすれば、そう、あの深い深い、無限地獄の中から千年、万年の時をかけて抜け出た人間。
そんな人物にのみ救済の剣は与えられる。
ふつうの人間が迂闊に手を出そうものなら、一瞬にして、その無限の闇に、引き摺り込まれることだろう。
彼らは孤独故に、常に仲間を求めている。




いくつもの無数の光、それらは大地に到達した。
ガードレールの上から姿を消した少年は、騒がしくなった自己現場を後にし、
道沿いにあるプレハブ小屋の影に腰掛けていた。
無数の光は少年目掛けて飛び込んでくる。
「わ、もう、何なの。おっそい登場だね?」
いくつもの光は天使の形に姿を変えた。

「お前だね、トラックの運転手に間違ってアクセルを踏ませたのは。」
「奴は長時間の運転による疲労と睡眠不足でガードが薄かったからね。奴の深層にとても入り込みやすかったよ。」
天使たちは武器を構えた。
「ナニソレ?君たち天使は魔界のヤツにはぜんっぜん手を出せないくせに、なんで人間界の僕たちのような奴は目の敵にするかなァ?」
 「あの人間は4日後に心臓発作で死亡して天界で裁きを受ける筈だった。よくも直接魔界送りにしてくれたな。」
「最近天使チャンたち頑張りすぎ。僕ちょっとウザいって思っててね。」
 「お前は今という変化の時の重要性を知らないようだね。」
「ああ、知ってるって、世界中めちゃくちゃキレイに浄化しちゃってさ、そのせいで僕らの仲間が喘いでるの知らないの?」
 「彼らに救いを齎そうとしているのを一番に妨害しているのはお前たち悪魔だろう!」
「ふふ、僕達の仲間これ以上消されちゃうと困るし。せっかく地上に楽園を築きかけてたってのに。なんであんなことしちゃうかなぁ?」
 「ぐぶっ!」

悪魔と呼ばれた少年は手のひらから鋭利なものを出して天使の一人を貫いた。
すぐさま天使たちは防御の体勢をとり、負傷した天使の治癒にかかる。
天使たちの連携は的確で素早かった。
・・・・が、
「アァアアアアッッッ・・・・」
か細い声が無数に散り、天使たちは姿を消す。

あまりの短時間に起こった出来事ゆえに、状況がつかめない。
しかしその場にただ一人残っていた悪魔の少年の姿が、先ほど起こった出来事を語っていた。
「人間界に派遣されてる天使ってこんなに弱いの?天使にとって人間ってホントに大事じゃないんだ。」
少年は瞳で今一度事故現場を捉える。その表情は悪魔らしくない、真剣なもののように見えた。
雨が激しくなり、視界が薄暗くなってきた。

少年の姿は影となり、やがて輪郭が捉えづらくなっていく。
悪魔は土砂降りの雨の中、事故現場をを背に受けながら、ひとつひとつ、その帰り道を自分の足で踏みしめるかのように歩いて行った。




悪魔にも一つ一つの歴史があるという。
天使から悪魔になった者、人間から悪魔になった者。
そして、神に近い存在から悪魔になった者。
悪魔になるにはそれ相応の負をその身に宿しているという。
悪魔は人一倍同情心が強いという者がいる。
それはこの世の痛みと悲しみを、何倍も何全倍もその身で経験しているからだという。
本当に救われるべきは悪魔なのかもしれない。
本当に我々が救う、最終目標は、悪魔を救うことかもしれない。
昔ルーミネイトが天使の前でそう呟いたという。




赤い光が辺りに差し込む。
公園から子供たちの声は消え、人々は帰路に着く。

大地はその輝きを悠然と湛えているが、
人の心は大地の輝きよりも幾分も暗かった。

小さなゴマ粒ぐらいの虫が、奇っ怪な音を鳴らして、辺りを飛んでいる。
そこは日陰になっており、虫たちにはちょうど心地が良いのだろう。
その土地は被差別の土地であった。
壊れかけた修理されないままの建物に、どんなに一生懸命に働いても、働いても、
生き続けても、決して報われない悲しみと苦労が宿っていた。
先ほどの大雨で泥まみれになったネコが道を通り過ぎる。
他のネコと喧嘩でもしたのか、毛は所々抜け落ち、痛々しい生傷が無数に残っている。
雨と寒さで弱っているのか、そのネコは時々蹌踉めいて地面に体をぶつけた。
そんなことを繰り返していると、ある時溝に足をはまらせてしまう。
しかし体力も残り僅かなようで、何度かもがいてはみるが、抜け出す様子は見られない。

ネコは何度かもがき、やがてもがくことを諦めた。
人も弱りきった末に、こんな風に死んでいくのだろうか。
溝は適切に処理されていない下水が溜まっているのか、異常に臭く、
もがくことを諦めたネコに、小さな蚋たち纏わりつく。

ネコは動かない。
もう死んでいるのか生きているかも確認出来ない。
蚋に纏わりつかれたその物体は、暗い路地の溝の中で、さらに暗い何かに覆われた。
「すこし、そこを退いていただけるかい?」
それは人の影であった。
ネコに先ほどまでしつこく纏わりついていた虫たちが消えている。
男の手がネコをすくい上げた。
「君は、勇敢な命だね。でも死ぬには早くはないかい?」
男の手がネコの首を撫でた。

「君は、もう生きたくはないとは言わないのだね。何度でも挑戦したいのかい?」
動かなくなっていたはずのネコは、瞳を開いた。
金色の目がこちらを覗く。
「行っておいで、勇敢な命。最期は君に栄光を。」
ネコは男に促され、急に手足をバタつかせ、地面に着地した。
そのまま振り向きもせずに、ネコは前進した。やがて見てなくなってしまったはずのネコを、
男はほくそ笑みながら見つめていた。
建物の隙間から光が差し込み、男を照らす。
坊主のような髪の毛のない頭、見窄らしく蚤が湧いていそうな汚らしい服。
赤黒いその布切れからはドブの臭いがする。糸がほつれて、ところどころに穴がある。
男はネコがいた方向を見つめた後深々とお辞儀をし、とても楽しげな顔で、暗い道を踊るように歩いていった。


人間たちが蠢く遥か上の天界では、かつて類を見ない混乱が生じていた。
「ごきげんよう、オルフェーヌ・フェルメイです、これからあなた達への通達を担当させていただきます。」
金色の布を頭上から纏った礼儀正しいその女性らしい天使は、大混乱の中心にいた。
「どういうことですか?」「ルーミネイト様は!?」「ボージクダン様もいらっしゃいません!」
幾つもの疑問がその中央の天使にぶつけられたが、その天使は落ち着いた声色でこう答えた。
「どの大天使様もあなた方の見えないところにいらっしゃいます。狼狽なさらないで。
焦りと混乱はあなた方の聖なる光に隙を生み出してしまいます。」
フェルメイは両手の指で8つの円を作った。
彼女の前に沢山の情報が降りてくる。

「さて、何から始めましょうか。ああ、そうね、あなたは大笛の修理がまだだったわね。」
淡々と仕事をこなしていくフェルメイを前に、未だ混乱の色が隠せない天使たちが大勢いた。
フェルメイから任務を受けた帰り道、天界城の廊下で天使たちが話している。

「なんか、おかしいよね。」「オーブレット様も見当たらないって。」
「色んな大天使様が交代になったの?」「わけがわからないなぁ・・。」
口々に疑問と困惑の声が呟かれる。

「ミルネイ、ファージ、ココロト、ナリ、みんな何やってるの?」
キラキラと弾む声、桃色の柔らかい巻き髪。

「ローザ!」「ローザちゃん!」「今日もお茶会やってる?」
お茶会・・、そうローザは、いつも午後の休憩時になると、ティータイムと称しお菓子を作りお茶を天使たちに振舞っていた。
「うーん、それがねぇ、今日は誰も来なくって。あと3日前からダンテが姿を見せないんだけど、知らない?」
ローザは顔が広い。友達も多い。
そんな誰とでもフレンドリーに接することができるローザを見て、
かつてヴァイオレットはローザのことが本来の姿以上に眩しく見えたのかもしれない。

「ダンテ・・って、審判部門の天使よね。」「アウイーベゲン所属の。」
ローザは頷く。
「アウイーベゲンっていったら昔・・」
「ところでそうだ、これお裾分けね。誰も来ないから。」
アウイーベゲンの昔の話になりそうになると、すっとローザが割って入った。
可愛い小包には焼きたてのお菓子が入っているらしかった。
天使にとっては栄養満点、治癒と浄化を助けてくれること間違いなしだ。
「今日のお茶会、たったの1人も来なかったの?」
「うん・・そう、彼も、ヴァイオレットまで来なかったのよね・・。」
どうやらローザは知らないらしい。
「ヴァイオレットってあの堕天使の子でしょ?」
「堕天使じゃないわ、ただ少しだけ悪魔の源流が混じってるだけよ。」
「それを堕天使って言うんじゃないの?」
「堕天はしてないわ、彼は天界に忠実な他の天使と何も変わらない・・」
そう、傷つくココロも、繊細な魂も、なにも、なにもほかと変わらない・・・・。

ローザはそこまで言って声を詰まらせた。
彼女にとっての半天使ヴァイオレットという存在、彼は痛ましくてならなかった。
塞ぎ切って古城に何層もの壁を塗り固めて閉じこもってしまった小さなココロの天使。
そのうえ近ごろは外堀まで作って完全に外界を遮断しようとしている。

ローザには彼がそんな風に映っていた。
「ねえ、ローザ、あの子って確か・・」
天使の言葉を聞きローザの表情は一瞬にして固まる。
「今・・・・・なんて・・・・・?」
頭が真っ白で、何も聞き取れない。でももう一度確かめずにはいられない言葉。
「彼、ヴァイオレットは、人間界に追放されたって・・聞いたけど。」
「何ホントに?これで安心して天界飛びまわれるねー」「ちょっとあの子気持ち悪かった。」
天使たちが口々に本音を呟く。
唇を固く結び、ローザは何も言わなかった。
どうして追放されたのか?
何か原因でもあるのか?
どうにかして天界に連れ戻せる方法はないのか?
そもそも天界に連れ戻すことがヴァイオレットにとって幸せなのか?

「・・・ねえ、ローザぁ・・?」「ローザさん?」
「ルーミネイト様は・・!」
ふいに、いつになく厳しい口調でローザは言葉を発した。
「え、なに?」「ルーミネイト様は今・・」「・・どこだろねー?」
「行方不明?それとも特殊な任務遂行中とか?」「理由は全然わからないんだよね。」

「・・・・どういうこと?」
ローザはしばらくルーミネイト様に会っていないらしく、状況が全くつかめていないようだった。
「ルーミネイト様、例の事件から行方知れずになってる大天使の一人なんだ。」

・・・・行方知れず、ルーミネイト様が?ヴァイオレットが追放になった後に?
ローザの中で何かが繋がる。でもそれは、考えたくない想像だった。
出来れば最も起こって欲しくないことであった。
ルーミネイト様に、ヴァイオレットに、ダンテ。
3人とも行方知れずだなんて。
ま・・・・まるで・・・・あの時みたいに・・・・・。

ローザの体は小刻みに震えていた。
蒼白になったローザの様子を見て彼女を気遣う周りの天使。
「あ・・・、ごめんねっ、えっと、またなにかわかったら、教えてくれる?」
精一杯の元気と明るさを込めて、ローザは声を振り絞る。
天使たちは困惑の表情を浮かべながらも頷いた。
ローザの態度は明らかにいつもと様子が違っており、それは明らかに天使たちにも読み取れたからだ。

大丈夫、何もない。何も起こらないわ。何も・・。大丈夫。
しっかりするのよローザ!
震える両手をお互いにがっしりと握りしめ、両手で自分を励ます。
それでも小刻みに手が震えているのが伝わってくる。
とりあえず・・そう、どうしたらいいかしら。
うん・・。相談できそうなのは・・・、まずはモカよね!



モカフォトン、モカの名で親しまれる彼は、
天界では半悪魔であるヴァイオレットとつるむ珍しい天使と有名な人物である。


「イジクリクリ〜ン、ビュッとな。」


変な仮面をつけ、変な格好をし、変な機械を弄っている変な男。
「モカ、いた。あのね、ちょっといいかな?」
「ローザさ〜〜〜ん!その魅惑的な声は薔薇をも恥ずかしさのあまり
真っ赤に染めるというローザさんではあ〜りませんかっ!」

・・こんな調子のいいことを言っているのがモカである。

「あれ、珍しく女の子追いかけてないのね?何か他のことに夢中?」
ローザがひょっこと、影から機械を覗きこむ。
「ローザさん、前々から言おうと思ってたんですが・・」
「・・う〜ん、暗くてよく見えない・・何の機械?」
「あ、それ、あんま下を触るとまずいっス。」
「えぇ?」
「キャッ!ローザ姉さんに触られると機械も真っ赤っ!」
「あっ・・何か・・泥餅みたいなのが出てきたけど・・」
「なにぃっっ!!?失敗!?またもや!!?なんでっ!!?」
どうやらこの機械で何かを作っていたらしかった。だがこの際そんなことはどうでも良い。

「ね〜え、モカくん。ヴァイオっち知らない?」
「僕の最愛の天使ロー様は僕のことよりアイツがお好きだと?!ロー様っっ!!!」
「ひゃっ、もう、モカくんはもっと年上が好みだってヴァイオレットから聞いたわよー?」
「チッ!・・アイツめ何チクってやがんだよ・・」
「え、なに?小さい声だから聞こえないわ?」
「へへ、見目麗しきローザさん、僕と結婚とかしません?」

結婚・・・天界に本来結婚や恋愛などというものは希薄な概念だった。
それが近年天界と人間界の壁が薄くなりつつあるらしく、人間界の真似をする天使が増えてきているのだそうだ。
モカもその一人・・、いや彼が特殊なのだろうか。

「それ昨日も聞いたわ。天使がケッコンなんてするの?」
「聞いたところによると、人間界では男がローザ様のような美しい女声にそれはもうプロポーズしまくって
周りに大勢の妻を娶っているらしいじゃないっスか、いわゆる・・ハーレムっていうんスか?!」
鼻息を猛烈に荒くして理想を語りまくるモカ。少々・・いやかなり鬱陶しい。

「うーんと・・・あ、そうだ、これあげるから、ヴァイオレットのことなにか知ってたら教えて?」
「そ・・・・そこにあるのはまさかもしや万が一いや絶対に、ローザ様の手作りケーキ!!?」
「あ・・教えてくれたら、ね?」
モカといるといつも話が変な方向に行きまくるので、毎回こうして餌・・もとい贈り物を用意して話題を引っ張りだすのである。

「あぁ・・ケーキ!ケーキといえばこの前、双慎璧に住んでらしたそれはスンバらしぃ〜く美しいお姉さまが、
ケーキを焼いていて、あのあま〜くトロけるようなお姉さまの眼差しで見つめられたケーキが、俺の中に・・
・・・・・・・入ると良いなとか思った矢先、あり得ないことが・・いんや許し難いことが・・!」

「あの〜、モカくん、ヴァイリンのこと教えてくれないならもう戻っちゃうけど。」
「アァーーーッッ!!待ってーーー!!!ローザさぁぁん!!!
俺・・い、いや僕、僕で良かったら何でも話します。うん。・・・・・・で、何でしたっけ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
ローザが距離を置いて沈黙する。場が思い切り白けきっている。
「あ、えと、はいはいはい、思い出しました〜よ今!いやいや、もともと覚えてますって!!!
麗しき愛しのローちゃん、いやローザ様のお聞きになったことを忘〜れるわきゃ〜ないですよ!!!ははは!!」
「ヴァイオレットのこと・・」
「ああ、ヴァイオレット!あいつめローザ様の口から俺を差し置いてあいつの名前を言わせるなどなんて罪深いヤツ!」
「そうじゃなくて。」
「僕は断言しまスよ!ローザちゃんの心は僕に戻ってきます!必ずですっっ!!ホラ、僕の方が愛くるしいとか・・思いません?」
「・・・・・・あのね・・。」


こんな問答が何十回何百回と繰り返された後・・・・・
「こんなに誘っても乗ってくれないなんて・・・ローザ様ってばアイツに脅されちゃったりなんかしちゃったりしてるんスか?!」
「えっと、わたし・・どうしてここに来たんだっけ?」
「・・・・そういえばアイツ、最近見ないっスね。いつも銀の水辺の近くの崖で集まるのに。」
「え・・・・!(そ、そうだった、それを聞きたかったんだったわ!)」
「次会った時はネッテオさんを口説くの手伝ってくれるっつったのになァ〜。」
「ネッテオさん?」
「あ、なんでも無いっス!それよりですね、ローザ様っ!僕良いこと思いつきましたよ!!」
「うんじゃあ、また1年後にでも聞かせて、じゃあ☆」
「え・・・一年・・・?一年も待てと・・??僕にそれまで思慕の情をウンと募らせておけと!!!???
なんてっ・・・なんてっ・・・・、愛らしくも冷たいんだローザさんっっっっ!!!!!!!そのひんやり感が堪らねっっ!!!」

モカのところから逃げるように飛び去ったローザは、天界の空の中で考えこむ。
モカはヴァイオレットがどうなったのか、全く知らないのね。そういえば部門も所属部隊も違うものね。
きっと遊ぶときだけ一緒にいるんだわ。
・・・・・・とすると・・あとは・・・・。



イコン。彼は天界の、いや世界の全ての情報をその身に宿しているという。
まさに生きた辞書、エンサイクロペディアといったところか。
でも言葉に出すことを禁じられた口禁の魔法が何重にもかけられており、彼は許可されたこと以外は口に出せないのだという。
「行ってみますか。」
イコンのいる天界貯蔵図書館は非常に遠い。地理的に遠いというより、空間的に遠いのだ。
天使が出入りしにくい場所に存在する。それはその天界の貯蔵庫兼図書館が、いかに重要な情報を貯めたものであるかを示していた。

「あそこに入っていくのはタイヘンね〜」
天界貯蔵図書館への道のりには、いくつもの見えないバリケードのようなものが存在し、天使の道を阻んでいる。
それを通過するためには、念入りな浄化と、とある同化の儀式、そして大天使への許可申請が必要であった。

「もう、ヴァイオっち、どこいっちゃったのよ。」
くちをぷっくりと膨らませて、拗ねてみるローザ。彼女は何かを非常に恐れていた。
それはこれから起こることを予期していたのか、それとも過去の自分をヴァイオレットに重ね合わせていたのだろうか。

「うん・・、許可証ももらった。これで全部かな?あーもっ!ヴァイオったら!
帰ってきたら亡者の呻き声弁当1年間作ってもらうんだからっ!」

ローザが天界貯蔵図書館を目指してから非常に多くの時間が過ぎ去っていた。
ローザの表情にも疲労の色が滲み出て来る。
天界はいつもと変わらぬ静けさと穏やかさを保っていた。
辺りは長閑そのもので、天界に漂う無数の光も何一つ輝きを弱めることは無い。


多くの天使たちにとってあの出来事はどう映ったのだろうか?
死神という謎の少女が天に向かって攻撃をし、天界は大打撃を受けたかのように
天界は一瞬にして紫と赤と黒の光に包まれた。
しかしそれもまた一瞬にして無くなり、気づけばもといた天界がそこにあったのだ。
あるものは夢か幻かと考えたが、多くの天使が同じものを目撃したことを知って、
多くの天使はあれは何だったのかと深く疑問に抱くようになっていた。
しかし、天界が崩壊の危機に曝されていた事実を知る者は少なかった。


「あ・・、モカにこれ渡すの忘れちゃってた。」
「でもいいよね、彼って結局一人でずっと喋ってたし。私の話、聞いてるんだか聞いてないんだか。」
モカはヴァイオレットの数少ない友人・・いや、モカはヴァイオレットのことをツレと呼んでいる。
いつも2人で連れ立っては天界中でトラブルを起こす、天界きってのトラブルメーカーコンビとして
モカとヴァイオレットの2天使は非常に知名度が高い、いや悪名高い。
それはダンテの大きな頭痛の種でもあるが、ヴァイオレットが一番怯えや悩みを捨てられる時は、
まさにモカと一緒にいる時かもしれない。
ふいに過去の光景が蘇る。モカとヴァイオレット、あの二人のいつも賑やかな会話。



「モカ!これ見つけてきました!」
 「あ、ヴァイオレットそれそれ!どこにあったんだい相棒!」
「フェンゼル様の奥の部屋の物置の小さな黄色い箱の中・・」
 「うあちゃ〜、やっちゃったネ相棒さん!これで俺たちお尋ね者・・プフッ!」
「ええっ!お尋ね者って、これ見つけてきたら有名になれ・・・ええっっ!!!
お尋ね者・・有名になれるってそういう意味ですかーっっ!??」
 「うんうん、ヴァイオレット君よ、そういういみだよもちろん、お姉さまへの告白の成功率も上がるってもんよ!」
「そ・・・それは良かった・・良かった?んですよね??」
 「もちろんさ、キミにはあんま興味が無いことかもしれないけどね、うんと手伝っておくれよ俺のコックー!(告白)」
「え・・えいっさー!」
 「ほい、もっとこう、角度はこうっっ!!」
「え、えいっさーーー!!!!」
 「尻っ!尻を出さないっっ!!!」
「えいさーーーーーーぁっっ!!!」



ひゅんと風が吹き抜けて、それがきめ細かい白い肌を掠める。
普通の天界らしからぬ冷たく透き通った風を受けてローザは我に返った。
「そう、あの頃のヴァイオってば楽しそうだったわ。本当に笑ってる感じがしたものね。」
「今は・・・、今のヴァイオレットは・・・重い表情ばっかり。」

近頃のヴァイオレットはとかく天界に翻弄されているように見えた。
天界と魔界を行き来したり、疲労困憊の中で浄化によりさらにダメージを受けたり、そして・・、
そう、あの、極楽地獄のwebサイトの任務が持ち上がってからは、彼は常に落ち着かない様子だった。

ローザの長い睫毛がしっとりと湿気を含んで下を向く。
無意識に止まっていた足に出来た天界特有の緑色と黄色の影。
ローザは影の中に埋もれた自分の足を見つめた。
足元には不均一な網目の布地に天使文字でこう書かれている。

"ローザ先輩が、傷つかないように守って"

それはヴァイオレットからの贈り物だった。前にローザを傷つけてしまったことが余程気に病んでいたらしく、
貴重な糸を見つけてきて編んだのだという話だ。
あの後ヴァイオレットは、たいそう自分を責めていた様子で、顔は青黒く不気味な表情をしていた。
彼は時々こう零す。

「自分が怖い」と。

彼は常に何かに怯えているフシがある。
天界の目、世界のあらゆる者から、その存在自体を咎められているのではないかという恐怖。
そのどうしようも出来はしない存在という罪。存在するだけで存在する罪。
悪魔の羽をもごうとも片翼と言われ、激痛に耐えて悪魔を封印しようとも、あらゆる者から不審な目付きを向けられる。
信頼を得るために、天界に溶け込むために、そして自分の存在を見出すために、あらゆる手を使った。
地獄に堕天し悪魔として生きようとも思った。

だが生まれつき中途半端な存在の彼は、結局どこに行き着いても結果は同じ、
自分には何かが欠けていて、そして生まれつき咎人なのだと、自分を責めることもしてみたが、もうそんなことにも疲れ果て、
今はただちいさく、そう誰の目にも映らないように、道端に転がる石ころのように、できるだけちいさくなって生きる。
それが最も良い自分が生きていくための処世術なのだと彼は気づいたのだ。



そんなヴァイオレットの姿が、痛々しくて、ずっと居た堪れなかった。
ローザは彼の中の何かを変えたかった。どんなときも自分に泣きついて来る彼の姿は、
どこか弟のようでもあり、どことなく愛らしくもあった。
ヴァイオレットが編み物に縫い付けた天使文字を手でなぞってみる。
やはり形も歪だ。手触りもがさがさしているし。でも・・。

「よし、ヴァイオレットに私がバシッと元気入れてあげなくちゃ!」

ぐっと右手を握りしめてローザはイコンの元へと歩みを進めていた。
大きなゲートをくぐり、天使に許可証を見せる。防御壁に穴が開いて中に入れるようになる。
空の色が普通の天界の色とはだいぶ違う、この空間がいかに特殊かということを示していた。

「イコン、いる?私、ローザよ。」
天界の貯蔵図書館の館内に無事入館を許されたローザはどこにいるとも知れないイコンに声をかけてみる。
シーン・・・・と静まり返る館内。
イコン以外に、ここには誰もいないのだろうか?
「うん、ローザだね、ごめん、ちょっと待ってて。」
しばらくした後、どこからともなく声がする。



金と銀で施された装飾、天界では珍しい建築構造。
いくつものガラスのようなものから球体が飛び出し反射している。
ローザの足に反応して地面が赤紫色に光る。
ぴっぴぴぴぴ、ポーーーーン、高い音と低い音、どの音も優しくて、でも面白い。
この絵はなんだろう、天井近くにある、細い枠にはめられた絵。
「物語・・天界の歴史かしら?・・・・奥まで続いてる・・あ、でもあそこまでは入れないわ。」
そういえばダンテも訝しげな顔で不服そうに愚痴っていた、どうやっても奥まで立ち入らせてもらえないのだと。


「・・・・・奥には何があるのかしら・・?」
どんなに姿勢を変えて見ようが、目を凝らしてみようが意味が無い。
オパールのように多様な色彩を放つペガサスに似た生き物の彫刻、そこから先は見えない壁で封じられていて
許可された天使以外は入れないようだ。

「何やってるの?」
すぐ後ろで声がし、ローザは慌てて翻った。
「この奥って、何があるの?」
とりあえず、聞いてみた。イコンは何か知っているのだろうか?いや、イコンはここの司書であり、管理者でもあるのだからきっと。
「・・・・・・・・・・・・。」

沈黙。
イコンの目はふいと天井を見上げた後こちらに戻ってきた。
「どうしてそんなことが知りたいの?」
いつになく重々しい声のトーン、聞いてはマズいことだったのか?
「え?う〜ん、ダンテも気になってたみたいだったから。」
言い逃れのようにダンテを持ち出してみる。
「はぁ、ダンテもしつこいな。」
イコンには珍しい厳しい口調と表情。
どんな時も大抵は穏やかで無邪気なイコンだが、そんな彼も任務には忠実らしい。

秘密は絶対に守り、掟は決して犯させない。

そんな厳しく仕事熱心な態度が今の彼から窺える。
少し険悪な雰囲気を察してローザはすぐに話題転換を図る。

「ごめんね、もう気にしないで!それよりね、ヴァイオのことを知りたいんだけど・・」
「うん?ヴァイオレット?」
急にイコンの表情が緩く穏やかになった。これがいつものイコンの表情だ。
ローザは天使たちに聞いた話をイコンにしてみる。

「うーん、人間界追放ねぇ・・?ホントかなそれ?天使たちが勝手に騒いでいるだけじゃないの?」
天界でのいざこざと、半天使であるヴァイオレットと天使たちの確執を良く知らないイコンは、俄には信じがたいといった風だ。
「ルーミネイト様がいらっしゃらないから、何もわからないのよ。」
「ルーミネイト・・」
何故かイコンがルーミネイトの単語に少し反応した気がした。
「ダンテ、そういえばダンテは?」
今度はイコンが訊いてきた。
「ダンテもどこか行方が知れないの、イコンなら知ってると思ったけど違った?」
イコンは目を丸めて驚きの表情をとったかと思うと、何かを思い出しているかのように考えこむポーズをとる。
「・・・そっか、ルーミネイト様を探しに行ったまま帰って来ていないのか」
「ルーミネイト様?ダンテはルーミネイト様を探しに行ったの?」
思わず聞き返すローザ。

「それにしても任務を放っぽり出してルーミネイト様を探しに行くなんてね、ダンテってば降格がこわくないのかな?
・・・それとも、それだけルーミネイト様が大事ってこと?」
まるでダンテが目の前にいるかのように、疑問符をつけてダンテに問い詰めるようにイコンは呟く。

・・・何を怒ってるのかしら・・?イコンはルーミネイト様のこと、よく思ってない?
それともダンテのことを心配してるのかしら・・?

「・・もう、しょうがない、どうなっても知らないよ。」
ぷんぷん怒りながらイコンは両手を前に伸ばし複雑な円を描いた。
文字のようなデータのようなものが、光の粒となって、砂糖のようにイコンの手のひらに落ちてきた。
それはやがて平らになって本の形に形成された。
銀の背表紙にオリーブ色の文様が入った本、その本をイコンはローザに差し出した。
とても珍しい色合いと材質の本だ。ローザはたまに天界図書館には足を運ぶがこんな装丁の本は見たことが無かった。

「ダンテに会ったら渡してよ。せいぜい気をつけて。」
「・・イコンって、ダンテには厳しいのね。」
「・・・・、そうじゃないよ、ただ、ダンテは時々暴走するでしょ?
自分の信念なんだか何なのか知らないけど、自分の立場がすごく危うくなってもまだ気づかない時もあったんだよ。
・・・あれじゃ、いつまで経っても上級天使にはなれないと思うな。」
「・・ふふ、なるほど。そういうことね。」
やっぱりイコンはダンテのことが心配だったのだ。大切に思うほど態度が厳しくなるということなのかもしれない。


ローザは手元にあった焼き菓子を渡してイコンと別れた。
結局ヴァイオレットの情報は何一つ得られなかった。
彼は嫌われ者の半天使でいつも独りでいることが多い、イコンのところにたまに相談にも行くらしかったが、
やはり彼はいつも独りで行動するのだ。だから彼の消息を知る者はほとんどいないのだ。
振り出しに戻されたような状況に肩を落としてみるものの、そんなことをしていても解決はどこからもやってこない。

「やっぱりここは、動きまわって、みんなに聞きまわってみるしかないわ!」
ヴァイオレットと違い、ローザはアクティブで元気な女の子なのだ。

彼女はぺろっと舌を小指にあて、くるくるっと指を回転させたあと小指で天を指さした。
これはローザの元気づけのおまじない。
頑張ってこ!という自分に対する励ましを天に向けて、
神様も力を貸してね!という想いで天に指を向けるのだそうだ。
天界にも人間界にも、そして魔界にも居場所を見出だせない半天使半悪魔ヴァイオレット、

彼は今、どこを彷徨い、何を想っているのだろうか・・?



薄暗い霧があたり一面を覆い隠し、ほんの30cm先も見えない暗闇が続く。
ところどころにある光が自分という姿を辛うじて留めてくれている。
空気が湿っぽい、気温も低く、風邪を引いてしまいそうな居心地の悪さ、でも、
独りで漂うには、最適な場所かもしれなかった。

「片羽ちゃん・・・。」

誰かの声が聞こえた。・・ような気がした。
視界の悪さで誰がその場にいるのかも認識できない。
しかし人ならざる者は、独特の嗅覚でその存在を認識出来た。

「ねえ、片羽ちゃんってぇば・・。」

少年の声は誰かに語りかけているようだった。
しばらく暗闇に隠れていた少年だったが、何度語りかけても一向に返事がないために、しびれを切らして光の元へと姿を見せた。
青白い光の下に、ぼやっと怪しく現れた黒い影。

「生きることを放棄した?だからそんなところにいるんだよね?」

光に反射した青白いぼやけた肌と人の気配を帯びていない青白い目。
その姿を見て思わず背筋が震え、ゾクッとする。
幽霊かと見間違わんばかりのその希薄な存在感と、亡霊を思わせる白い肌と髪の毛。
辺りを覆う霧が少年の姿をより一層怪しく映させた。
そして・・、少年の青白い瞳の先には、同じように希薄な存在感を帯びた少年の影があった。
「ヴァイオレット。結局何者にもなれなかったんだ。でもここにもキミの居場所はないでしょ。」
青白い少年は薄気味悪い笑いを零す。

「パトリ。」
対峙したもう一人の少年は初めて言葉を漏らす。
「残念なキミに残念なお知らせ。」
返答を少し待ってはみたが、対峙した少年は無言のまま青白い少年の方を見ない。
反応が返ってくるのを諦め、少年は言葉を続けようとした。
少年は敬意という名の笑みを浮かべ、こう言い放った。


「・・・キミの大事な友人が死んだよ。」


ぴくっ、っと、大きく反応を示したもう一人の少年は、形相を険しくして荒々しい言葉を投げつけた。
「なんのことだよ。」
青白の少年は無反応に続けた。

「ヴァイオレット、いや、片羽ちゃんでいっか。今まで一体何してたの?」
ヴァイオレットと呼ばれた少年は、再び沈黙を返した。

「クフフッ、キミがいない間に大変なことが起こったんだ。友人だったんでしょ?どうして助けに来なかったの。」
「誰の・・・ことを言ってるんだよ・・」
ヴァイオレットはきっと目を見開く。
ふっと青白い少年の不気味な微笑みが姿を隠し、少年が真顔に戻る。



「ジルメリア。魔界に勝手に侵入してきた天使に殺されたんだ。」



ジルメリア、それは魔界での数少ないヴァイオレットの友人であった。
ヴァイオレットは魔界での出来事を天界で語ることはほとんど無かったが、魔界にもちゃんと友人と呼べる者がいたのだ。
ジルメリアはヴァイオレットが魔界に来て最初に牙を向いた悪魔だった。

ヴァイオレットとジルメリアの乱闘は激しいものだったが、ジルメリアは彼の苦しみを少しずつ知るようになる。
魔界でもがき苦しむヴァイオレットの姿を見て、ジルメリアは次第に彼と心を通わせるようになっていた。
瀕死の時、天使の羽を毟られて片羽になった時、自分の存在に絶望した時、あらゆる時に、ジルメリアは希望の光を与えた。
悪魔とは希望の光を与えたりする存在なのであろうか?

天使にも様々な天使が存在するように、悪魔の理念や生き方も実に様々である。
人間の堕落を成し遂げそれを誇りとする者、天に歯向かう者、魔界の領域と勢力を広げたい者、力を示したい者、
この世に絶望と悲しみと嘆きを広げたい者、闇に落ち悪魔の真理を探求する者、
誰かを救いたいと願い悪魔となった者、愛というものに絶望した者、只亡者と成り果て、もがき苦しんだ末に狂気を身につけた者。

ジルメリアは深い闇の中での、真理の探究者だったのかもしれない。
悪魔という存在を問い、魔界の存在意義を問うた。
そんなジルメリアにはヴァイオレットの存在が非常に興味深く、革新的に思えた。
何かを解き明かす重大なヒントが、ヴァイオレットという存在そのものに隠されている気がしたのだ。
当時のヴァイオレットは天界でも友人がおらず、本当に孤立した存在だった。
いつどこで消えてしまうとも知れない極めて薄弱な生命力で、僅かにその存在をぼんやりと保っているに過ぎなかった。
彼にとって、ジルメリアは最初の光であり、ヴァイオレットが自分という存在を形成するための、なくてはならない初めての存在だった。

ジルメリアには、非常に長い殺戮の時代があった。悪魔には多かれ少なかれそういう時代がある。
神という存在を信じる人間たちを見て、馬鹿にしたことも、時に羨んだこともあった。
しかし神という何者なのかもわからない存在が、概念自体が多くの悪魔には存在しない。
ジルメリアはそのことに疑問を抱き始めた。

人間と悪魔は存在がもともと違うのか?人間とは何で、悪魔とは何なのだろう。
悪とは何なのだろう?生命を傷つけること、脅かし、貶め、侮辱すること、そして深い闇の中に幽閉すること。光を奪うこと。
私たちは何のために存在し、何のために生まれてきたのか?
奇しくも人間と同じ探求を、悪魔という存在の私がするようになるだなんて・・、ジルメリアはそんなことを思った。

人間が絶望のどん底にいる時、死が迫った時、皆が決まって神の名を口にする。
天使もそう。神の愛で、私たちは行動し、生き、神によってエネルギーを得るという。
それじゃあ私たちは何だというのだ。
神というわけのわからない、多分親玉みたいなもの、それと天使と人間は深いところで繋がっているように思えた。
私達のところに魔王というものは存在するが、それは単に力の頂点を極めたもの。
魔王を崇拝していない者など数多くいる。むしろ魔王を腹の底では殺そうとしている悪魔なんて数知れない。
実際に歴代魔王の交代は、暗殺か死亡によって起こっていた。

魔界とはそんなところであり、それらはごくごくアタリマエのこと、人間たちが抱く恐怖とか、悲しみとか、そういうものではない。
私たちはたった今まで横で飛んでいた悪魔が死のうが惨たらしいくらいの悲鳴を魔界中に撒き散らそうが、全くもってどうでもよかった。
人間たちの世界で、愛の反対は無関心だというのだと聞いたことがあるが、魔界の、悪魔たちの世界ではまさに無関心が普通だ。

他人には無関心だが、自分への愛情だけは深く、自分だけへの愛が故に、力をつけて魔王になる道を目指す、そんな者も多い。
人間の魂を持ってしてみれば、非常にショッキングだと思われる、あたり一面が死体の山だとか、呻き声が聞こえるとか、そんなのも普通。
だってそれが魔界であり、魔界はそんな者の行き着く楽園なのだから。
もがき苦しみ続ける者が、天界になど入ろうものなら、それこそ業火に焼かれるような苦しみを味わうことだろう。
彼らにとっては魔界がまさに楽園そのものなのであり、同士達の住まう都である。

魔界でよく見かける、腐った死体だとかカビかけの邪魔なだけの這いずることと生気を吸うことしか脳のないゾンビども。
ああいったものは放っておけば消えるような存在のはずなのに、魔界ではそれらが常にある。誰かが創り出しているのだ。
創り出すものが減ることは永遠にない。きっと。地べたはゴミ箱のような場所が多くて、とてもじゃないけど歩いてられない。

引き摺り込まれたり、刺されたり、ぬめった死体に血、道を阻むことが大好きな者が多いこの魔界では、歩くのは得策じゃない。
だからって飛ぶと、悪魔たちの標的にされる。目立つから。
みんな生き残った悪魔というのは、それなりに自分の身が守れるし、守れなければ、地べたを這いつくばってる亡者のようになるだけだろう。

悪魔として生きながら、自分の安全な生き残り方を見つけ出す。悪魔なりの知恵を身につける。
生ぬるい天界では寝ていても生きられるらしい。

過去何回か、天界の天使たちと大衝突して、めちゃめちゃに戦ったことがあるけど、
大体においてそこら辺の天使より悪魔のほうが強い。弱い悪魔はもうとっくにどうにかなっちゃっている。
過去の激戦を交えて初めて、天使たちの阿呆さ、楽観的で、そのとぼけた生ぬるさを肌で知った。


ヴァイオレットも最初はなかなか弱かった。
虫のようで、放っておけばすぐ殺されてしまいそうな、天界から遣わされて来たと言っていたけど、
天界はそんなことを言いながら本当はこいつに死んで欲しいと思ってるんじゃないかと思った。


私、ジルメリアがある時その考えをヴァイオレットに話すと、彼はひどく動揺し、泣いていた。
一番言ってはいけないことだったらしい、彼も一番それを恐れていたのだ。
天界とか、天使とかいうものが全くわからない。悪魔にも間抜けな奴はいるけど、天使の間抜けさは度を越していた。
弱々しい天使が、消されるのを承知で私に飛びかかってきたり、神のためだとかいって、平気で無謀なことをした。
でもその神とやらは守ってくれもしなければ、現れもしないらしく、天使たちは普通に無残に殺されていった。

もしかして神というやつは、悪魔よりも悪魔らしい、究極の魔王なのだろうか?

天使たちや人間たちに神という存在を信じ込まさせて、神のためという名目で戦わせる。
悪魔は人のために戦うなんてことも無ければ、自分が一番可愛いと思ってる悪魔が多い。無茶な戦いなどはじめからしない。
天使どもを見ているといろんなところでおかしいと思う。信じがたい。

皮肉なことに、ある意味悪魔のほうが自分たちの命を大事にしている。

人間界の宗教でも、命を大事にとかいう考えがあるらしい、他人を大事にしなければならないとか。
そして、自分の命を軽んじ、弄ぶようにあっけなく自分の命を捨て去る。何て滑稽で、馬鹿馬鹿しい様。
やはり神という存在は、悪魔よりも悪魔らしい、魔王よりもさらにウワテの真の魔王なんじゃないか。
真の魔王ってのは、真の悪を極めた者は、魔界にじゃなく、実は天界に存在する。
この世はとっても皮肉に、わかりにくく、何層にも真実と虚構とを交互に織り交ぜて、複雑に作ってある。

あはは!面白い世界!なんて面白い世界に、私はいるのかしら!
そんなジルメリアの独白を、ヴァイオレットは路頭に迷った際に魔界に忍び込んでいつも聞いていた。
彼女のそれは、どこか真実めいていて、でもどこか虚構で、どこか別の世界の話をしているようで、ちょっと面白おかしかった。

彼女自身も面白可笑しく話していた。僕は真実とかはどうでもよかった。
ただ僕のそばに誰かがいて、なにか話しかけたりしてくれる。そんな存在がいるだけで、ぼくの存在がここに在るような気がしたんだ。
彼女がいて、だから僕は存在する。

彼女、ジルメリアは僕のraison d'etre(存在理由)そのものだったんだ。





 「天使がジルメリアを殺した?・・そんなことするはずないだろ・・!!」
彼らしからぬ、挑発的で厳しい口調。ヴァイオレットはあのジルメリアが、彼の中で大きな大きな、
そして何よりも深い存在になっていたジルメリアが天使に殺されたなど、信じられるはずがなかった。

「何言ってんの。」
ヴァイオレットの頑なな態度が滑稽に映ったのか、青白い悪魔、パトリは可笑しさで声を震わせた。
パトリはアハハハッ!っと両肩を揺さぶらせて笑い、お腹を押さえた。

「天使なんだから、悪魔を殺して当然じゃないか、今更何いってんの?」
こいつの言い方はいちいち癇に障る。ヴァイオレットは表情をよりいっそう強張らせる。
今にも飛びかからんばかりの尖い勢いを秘めたヴァイオレットに気づき、パトリはやや声の高ぶりを抑え、落ち着いた口調で続けた。

「ああー、怒んないで。ホントのことでしょ?」
やはり癇に障るらしい、ヴァイオレットの表情には怒りの感情が窺える。

「待って待って、別に挑発しに来たんでもないんだから。まーさ、魔界と天界の均衡を天界側から破るなんて、流石の僕も呆れたけど。」
 「魔界に派遣された天使が悪魔を殺すなんてあり得ません!だって上級天使たちは今の魔界と天界の均衡を崩すことを厳しく禁止しているんですよ!」
「じゃあさ、なんなの?ジルメリアは気まぐれで死んだって?」
またムッとするヴァイオレット。どうもパトリは無意識のうちに人の感情を逆撫でしてしまう節があるらしい。
場の雰囲気が再び気まずくなったので、パトリはとりあえず頭をぽりぽりと掻いてみる。
そんなパトリを無視し、ヴァイオレットはくるっと背を向けた。

「ちょっ、いきなりどこ行くの。」
 「ついて来ないでください。」
「だーぁからどこ行くのって。」
悪魔ご自慢の黒い翼をはためかせ、空中からヴァイオレットの先回りをするパトリ。

 「・・魔界に決まってるでしょ!」
こんなヤツにわざわざ行き先を話す必要などない。話したらどうせ、またあれこれと癇に障ることを言われるだけだ。
そう思いつつも、パトリの素早い先回りにウンザリしたヴァイオレットは、思わず行き先が口をついて出てしまった。

「あー?はいはい?魔界っていいましたか、オニイサン?」
相変わらずフザけた調子で返すパトリ。正直、イラつく。
「どっか行ってください!どこかに消えろ!お前なんて信じてない。ジルメリアだって生きてる。」
「何その言い草〜、ジルメリアのこと教えてあげたの誰?僕ね?」
悪魔には何故かウザったい人物が多い。趣味は嫌がらせ。そんな悪魔も少なくないからだろうか。

「大体さ〜ァ、片羽くん魔界に帰れると思ってる?」
そう言われた瞬間、さっと振り返るヴァイオレット。
「・・どういうことだよ。」
「魔界にも、天界にも、人間界にも居場所なんてない可哀想なオニイサン。くふふふ!」
バシッ!
笑い声が出た瞬間電撃のような何かがパトリの頬を掠めた。
ヴァイオレットの右手には魔法を発動させた跡が・・。怒りで思わず攻撃をしてしまったのだ。

「あー・・っとねぇ、魔界ゲートが閉じちゃって〜、僕も帰れないの。」
そんなヴァイオレットの表情を見て嬉しそうに話すパトリ。

「・・それって・・、」

「片羽くん開けてよ。」
「なんで僕が・・!」
「天使のバッジ、持ってるんでしょ?」

「あっ・・これ、返すの忘れてた・・」

そういえば人間界にしばらくいるように言われた時、バッジを返上しておくよう言われたのだった。
バッジというよりこれは、魔界で生き延びるためのお守りみたいなもので、
上級天使直々の護りの魔法がかかった紋章が刻まれているのだ。

「でもこんなバッジがあるからなんだって言うんですか。」
 「それかなり強い魔法かかってんじゃん。」

「そう・・なんですか?」
 「あっは!もしかしてわっかんないの?呆れるね〜ぇ。ゲスどもがアンタに近づかなくなったのってただのバッジのせいなのに!」

「う・・なんのことですか・・」
 「下級悪魔のことだよ、片羽ちゃんに近づかなくなったでしょ、バッジつけてくるようになってから。」

・・・そうだったんだ、僕が襲われなくなったのは、いいえ、襲われる回数が急に減ったのは・・・これのお陰。
確かにすごい護りの力があって、これを近づけると悪魔たちがひどく嫌な顔をするのは知っている。
・・ぼくもちょっとは強くなったから襲われなくなったのかと思っていたのに・・全然ちがった。

「それ貸して。」
「いやです。」
「ねえじゃ、魔界ゲートとか開けてみようよ!」
「どうやってですか。」
「んーー・・・、たとえば。人間界に我が物顔で入ってくるふてぶてしい天使どもが通る道、
天界ゲートを潰そう!んで魔界ゲートを代わりに作ろっ!」


ものすごく子供っぽい無邪気な調子で嬉しそうにパトリは言う。
「そんなことしたらぼく、天界に帰れなくなるじゃないですか。」
「え、もう帰れないじゃん。逃げてきたんでしょ?やっぱ居場所がなくて。なのに帰る気だったの?」
「う・・、い、一時的に人間界にいるよう言われただけです!だからすぐ戻れます!」

僕は今、心の声と反対のことを言ってる。本当は天界から追放されたんじゃないかと思ってる。厄介払いみたいに。
それにもう天界に僕の居場所なんてないとも思ってて・・、でも、もし、この悪魔の言うような、
天界ゲートを壊して、魔界ゲートを作るだなんて、そんなことしたら・・・・、
そんなことしたら僕は完全に天界と縁を切らないといけなくなるじゃないか。

今まで天使になるために、みんなと、ダンテと、ローザ先輩と一緒にいるためだけに耐えてきた天使になるための浄化の儀式も、
天界で認められるために、魔界も人間界も、他の異世界もいっぱい行き来して、時にはボロボロになって、死にかけたりして。
でもそれは全部、全部天使になるためだったのに。天使として、ぼくは天界で生きる覚悟を決めたからなのに。
・・それが全部無駄になるなんて、それだけはいやだ。



確かにノルディさんのところも抜け出してきた。逃げてきたよ。この悪魔の言うとおりかも。
でも、僕は天界を捨てたんじゃない。
僕は怖いだけで・・ううん、ただ拗ねているだけなのかな。

でももう帰りたくない、僕は真実が知りたくない。
でもだからって、天界との関係を完全に切るだなんて僕には出来ない。
ああ、なんて中途半端。意味がわからないってよくダンテに言われてた。
中途半端な奴だってよく言われた。

存在だけじゃなくて、性格まで中途半端な奴だって・・。
・・いいよ、それで。ぼくは何も知りたくはないし、もう見たくもないんだ。

何も知らなくていいから、これ以上ぼくを傷つけないで。



・・・傷つけないで?そういえばジルメリアの生死を確かめに魔界に行ったら、
もしかしたら僕は取り返しの出来ないくらいに、傷ついてしまうんだろうか・・?

でもどうして僕に迷いはないんだろう。
僕は迷いなく、ジルメリアに会いに、ジルメリアのいる魔界に行きたいと思っている。
可能ならばジルメリアを助けたい。生きていて欲しい。生死を確かめずにはいられない。

どうしてなんだ・・。
天界には行きたくなくて、でも関係も切りたくない、でもジルメリアに関しては、魔界に行きたいと思ってて、迷いなんて無い。
・・・変だな、僕って。僕っていつもヘンなんだ。


・・・・バッジの力で魔界ゲートを開けられるなら、開けてみたい。
でもどうやって・・?こいつに聞いてみる?・・・でもなぁ・・。。



「さっきから逡巡しちゃってなんなのさぁ、こっちを見なって。僕見て。いっしょに天界ゲート行こ。」
「パトリ、天界ゲートは破壊しません。魔界ゲートを開くだけです。やり方を教えないなら僕は天界から直接魔界に行きますから。」
「はぁ?ナニソレきったなぁ〜い!僕人間界に置いてく気?あんなにいいコト教えてやったのにさ〜ぁ!」

・・・天界から直接魔界に行くなんて嘘だ。ぼくはしばらく天界には帰れないし、帰りたくも無いんだ。
でも悪魔にはこれくらいは言わないと対等に渡り合えない。流石の正直者な僕でも、悪魔相手には嘘はつく。

「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・片羽ちゃんさ、ほんとに天界に帰れるの?」
少し沈黙した後、パトリはヴァイオレットの言葉を疑い、顔を覗きこんだ。さすがにこんなはハッタリぐらい、悪魔はお見通しだった。

「僕は待ってれば、いずれすぐ帰れます。それより自分の心配をしたらどうですか、パトリ。」
うーー、という声を上げ、大げさに塀の上を大きく足を振りながら歩いて悩んでみせるパトリ。
・・そういえばいつの間にか霧が晴れていた。そして辺りがうっすらと明るみを帯びてきている。
・・どうやら朝が近づいているようだ。

「・・・・・・んま、いいや。片羽ちゃん、」
「なんですか。」
「明日の0時にこの近くの魔界ゲートで待ち合わせね☆」
「この近く?」
「えー、知らない?あ、人間界から魔界ゲート通って直接魔界に行ったこと無いもしかして?」
「あんまり使わないですよ、最近は。」


人間界にある魔界ゲートは使いたくはない。
何故ならゲートを通る度に、そのゲートは強固な道となって、世界との間の距離が縮まる。
人間界にある魔界ゲートを使うということは、それを使う度に、人間界と魔界との距離を縮めていることに他ならない。
だからやむを得ない時しか使わなくなったのだ。
逆に人間界から天界へいくゲートは使いまくっているのだが。


「ははーん、なるほど、"最近は"、ねぇ?それって天界側にいようと決意するまでは使いまくってたってことだよね?」
やはり悪魔だ、察しが鋭い。

「なんのことだか。それより魔界ゲートの場所、教えないなら帰ります。」
悪魔はとかく誰かに絡むのが好きなので、これくらいそっけない態度を取った方がちょうどいい。

「あー、はいはい、魔界ゲートはこっから北西、いっぱい人が死んだ場所。」

・・人が死んだ?それもたくさん?何のことを言っているのだろうこの悪魔は。

考えたくない悪い想像が一気に膨らむ。
この悪魔は何かやらかしてしまったのか、何かとんでもないことを・・。

緊張が体を貫き、何かを尋ねることを躊躇わせた。

「あ、まだ知らないよね?だって今日の話だもん。」
無邪気に上半身を傾けて、後ろに手を回す格好をして上目遣いでこちらを覗く。
パトリのつぶらな薄い水色の瞳。まだあどけない瞳のはずなのに、どこか残酷で、でも魅力的で。

「そうさ、ぼくが殺ったよ。」
目付きを豹変させて、彼はニタァっと笑った。
薄気味悪くてゾクゾクする。命の危険を感じるとても残酷な、残酷な笑顔。
これが悪魔というものなのか。酷く扱いにくい獣のような獰猛さを秘めたその笑顔。怖い。

「あれ?この言葉を期待してたんだと思った。なんで無反応?・・まさか、怯えてるとか?ハハッ!」
固まってしまったヴァイオレットを見て、パトリは拍子抜けしたといった風だ。
もっと面白い反応を期待していたらしい。

「あのバスの運転手ってば馬鹿みたいだ。浮気するならもうちょっと上手にやればいいのに。
職場にバレちゃってやけ酒なんて飲んじゃうから事故るんだよ!」

悪魔にとっては最高の敬意のこもった、侮蔑と侮辱と嘲笑の声で、パトリは喋り出した。
そう、これは悪魔にとっての敬意なのだ。天使にとっては、いや人間にとっても理解し難い感情かもしれないが。

「パトリ、あなたが・・やったんですか?」
「だからそう言ったじゃない!お前の耳は腐ってんの?」
いつになくキツイ言葉。悪魔はテンションが上がるとえげつない言葉遣いになっていく。らしい。
「なんでそんなこと・・」
天界では常に異端でありどこか悪魔らしく、暴力的な面を持つヴァイオレットだが、パトリと対峙すると、極めて紳士的に見える。

「あーーーー、ウザ、なんでそんなふつうなことしか訊かないの?何人殺した?どんな死に方?どういう風に殺った?
悪魔が聞くとこってそこでしょーーー!!」
「僕は天使として生きてるんです。だから天界側についたんです。」
「嘘つけ、常に天界から離反しようと考えてんだろ。」
「な・・んですかそれ。」
一瞬ドキッとした。その狼狽えをパトリは見逃さなかった。
「やっぱ天界に帰れるなんて嘘だねー?追放されたのがホントで、君はそれを信じたくないから、今ここでウジウジしてるわけねー。」
ズバリ、言い当てられてしまった。やはり悪魔の洞察力はすごい。でも真実ほど言われたくないことは無いのだ。

僕はものすごく、心のどこか奥の方がズッキリと傷んで軋むのが感じられた。
とっても鈍くて、感じたくなかった金属音のような心の音。

「天界のやつらも甘ったるいと思ってたけど、片羽ちんもけっこー甘ったるいよね。なんでそんなわかりやすいわけ?よくそれで生きてるね。」
相変わらず毎回痛いとこを突いてくる。

「・・僕のことはどうでもいいことでしょ。僕はなんで殺したのか訊いてるんです!」
「そりゃあ、面白・・あぅんと、・・ここの魔界ゲート、開かせるために。」
わざと言い間違えて、相手の表情の変化を読み取る。悪魔が使う常套手段。
「・・・もういいです、わかりました、明日の0時ですね。」
「わおうっ!本気で来るんだー!一緒に世界をブッ壊そー!!」
冗談なのか本気なのか、いつも付け加えのようにさらっと怖いことを言う。

「そういえば・・」
ヴァイオレットは何かを聞こうとしてパトリの方を見る・・が・・、
「・・・あれ?」

もうそこにパトリの姿は無かった。如何にも身軽そうな彼は、用が済んだ途端、そそくさと何処かへ行ってしまったらしい。
散々人を振り回して、掻き乱しておいて、それは無いんじゃないか。

ヴァイオレットはなんだか拍子抜けする。それと同時に、全身の緊張が一気に解けた。
気づかないうちに、ものすごく体が強ばっていたようだ。彼の、パトリが秘める悪魔的で、残酷で、獰猛な何かが、
ヴァイオレットにとてつもない命の危険を、本能的な、気づかないところで感じさせていたのかもしれない。

ヴァイオレットは思わずその場にへたり込んでしまった。もう立つ気もおきない。心身ともに、疲弊させられた気分だ。
なるべくならああいう質の悪い悪魔とは関わり合いたくない。
でも明日会う約束をしてしまっているんだ。


はぁ・・・、と思わず溜息が出る。
「会いたくない・・」
天界にも会いたくない天使はたくさんいるが、魔界にいる悪魔もそれはそれで厄介だと改めて認識するヴァイオレット。
さっきのパトリとのやり取りで、一体何度冷や汗をかかされたことか。

パトリとの対話は、まるで命の駆け引きでもしているかのようだった。
それぐらい、パトリという悪魔には、常に殺意と狂気と残忍さが感じられたのかもしれない。

「・・はぁーー、こういう時は深呼吸です。すーーはーーーすーーーはーーーー・・・」
・・・・・少し落ち着いた。そして落ち着いてみて少しわかった。

自分の、僕の心が、天界を恋しく思っていることが。

「なんだ・・ぼく、恋しいんじゃないか。」
そっか、ぼくは・・・やっぱり天界が好きなんだな。

あぁ、ローザ先輩に会いたい。あの蜂蜜のような甘くて、芳しくて、可愛らしい匂い。
ローザ先輩の匂いを感じていたい。

・・あれ?これってけっこー変態発言?いいや、発言してないから変態発言じゃないです。
ヴァイオレットは自分の頭の中でなんだかわけの分からない問答を繰り広げてから、ふと、明るくなってきた景色に目をやった。

「あ・・・れ?あれは・・・」

先ほどの緊張が一気に体に戻ってきた。
それは事故現場の光景だった。
まだ生々しさが幾分か残っている。
気持ち悪い、ひどく悪趣味な光景。こんなものを、悪魔は好むのか。

僕の中の天使の部分がそれらをひどく嫌悪しているのがわかる。
それと同時に、ちょっとワクワクしている悪魔の部分の自分を必死で否定して抑え込む。
光って残酷だ。僕の見たくない本心にも光を当てて、そしてこの惨たらしい事故現場を僕に見せるんだ。

今までは暗闇の中で全然気づかなかったのに・・。
ビリビリ来る。ここで嘆き苦しんだ人たちの想いが、地面に、この場所に張り付いて離れない。
血と渦巻く怨念・・気持ち悪い。天使の部分の僕が拒絶反応を起こしたせいで、酷く頭がクラクラする。
事故現場、たぶんこれだと結構な時間が経ってるはずなのに、まだこんなにも生々しいんだ。うっ。

パトリ、なんてことをしたんだ。面白いから殺ったって・・言いかけた、あれは本気なんだろうか?僕をかき乱すため?
朝の7時ぐらいだろうか、本格的に陽が射してきて、自己現場のむごたらしさを誇張し始めた。

しかしそれと同時に、パラパラと、人がやってきている。弔いに来た人だろうか、花束を持っている。
その花の優しい香りが、この場での唯一の救いのように思えた。


祈り・・、数人の人たちが祈っている。愛していると、そしてとても悲しいと、でもどうか、幸せに、
天国に行って、幸せにと、そう祈っている。

僕達天使の重みを、彼らの祈りの強さを受けて、感じられずにはいられない。

他でもないぼくら天使が、彼らの祈りを届けないと・・そして・・助けないと。
僕はもっとしっかりしないといけない。パトリの企ては止めなければいけない。


それにしても・・・・。何なんだろうさっきから発せ始められたこの願いは。
・・・・なんて大きい愛なんだろう、
大きくて、強い想いなんだろう・・。

遺族の人なのだろうか、ものすごく強い願いが発せられている。

彼らの祈りが一度は地獄と化したであろう、ひどく低俗なところに貶められてしまったこの地を浄化している。
人の力というのは偉大だ。天使が助けなくても、人間とはかくも偉大なものなのか。


彼らが事故現場で祈る姿を見て、人間たちに圧倒されているヴァイオレットの姿がそこにはあった。
彼らは、悪魔が地獄の地にしようと企てた場所を、逆に聖地に変えようとしているのか?

そんなふうにすら思えるほど、彼らの想いは、揺るぎなく強かった。
死んでいった人間が、どれだけ強く、強く想われていたかが彼らの祈りから伝わってくる。
僕らがサポートし、導き、助けなければいけないと思っていた人間、そんな人間に教えられることはすごくたくさんあるみたいだ。

天使は力が強くて、魔法が使えて、空も飛べて、空間も行き来できて、でも人間はすぐに死んでしまいそうな弱い肉体の中で、
とても制限された中で行き、制限された情報から選択し、行動する。

遥かにちっぽけで、可哀想にも思える人間なのに、でも、時々、とてつもなく強い存在に見えることがある。今なんてまさにそう。
必ずしも力が使え、自由である僕らが人間より上の存在では無いのだということを、人間界を見ているとよく感じる。

そういえば昔、天使は人間より遥かに上の存在だと言い張って、結局堕天した天使がいた気がする・・。
何が上で、何が下なのか、今の僕にはよくわからない。
今の天界では、天使たちの方が人間たちより優れているだとか、高貴だとか、高潔だとか、思っている天使も多いみたいだけど、
でもそんなの、誰がわかるっていうんだろう。一体誰が比べるんだ?そんなの誰にもわかんないよ。
上とか下とか、誰が偉いだとか、優れているとか劣っているとかって、一体何なんだろう。本当にそんなもの存在するのかな。
絶対的な何かがあるなら見てみたい。でもそんなもの本当は無いんだ、だから天使たちがケンカしてる。
人間と天使とではどっちが偉いだとか、なんとか言って。



事故現場をぼうっと眺めているうちに、人の数はみるみる増えていった。そして手向けられる花の数も、祈りの強さも増幅していく。

祈りなんて誰にも届かない?
・・ううん、そんなことない。僕にははっきりと聞こえる。

その祈りは確実の地獄になったここの不穏な空気を打ち消して・・浄化している。
僕にはハッキリと見える。

人の願いはとても強い。その力もすごく強い。
でもそれらの願いがアッサリと踏みにじられて、人々が絶望の顔色に変わって、
そしてその場に絶望を振りまくことを悪魔たちは何より望んでいるんだ。

地獄を増やしたい。地獄の領域を増やしたいから。
地獄の領域が増えると悪魔の領域も増えて、振るえる力も増すから。

悪魔がいちばん望んでいるものは、そう、絶望。
人間に絶望して欲しいんだ。そして叫んでほしい。
神なんてどこにもいないって。

そして光との縁を永遠に断ち切って、僕達のところにおいでよって誘う。
人間は晴れて悪魔たちの奴隷になる。
光を失った人間は、途端に自暴自棄になって、人も自分も、みんな全部殺しまくる。
そうなって欲しい。

破壊と殺戮が悪魔が手を下さずとも生まれて、そしてその悪は広がっていく。


悪魔の悪っていうのは、悪いことをする行為のことなんかじゃない。
人の絶望と、絶望がこの世にもたらす地獄のことなんだ。

ある程度自暴自棄になってくれたなら、もう後戻りなんて出来ない。
犯した罪に足元を引っ張られて、ますます抜け出せなくなってしまう。

これでもう、悪魔たちの罠にかかったのとおんなじ。
人間は自分のことを罪深いと思い、自分を罪人という存在にして、その罪悪感によってますます悪人になる。
罪の意識を植えつければ人は上には上がれない。光と結び付けなくさせる絶好の方法なんだ。

罪っていうのは本当は粛清のためにある概念じゃなくって、悪魔が人を支配するために作ったまぼろし。
でも僕達は表裏一体で、天使と悪魔は表と裏。
良いことが何なのか認識したら、悪いことが何なのかもわかってしまう。
天使たちが教え導く良いこと、善いことは・・同時に人の心に、その裏にある悪いことも教えてるってこと。

そしてもし悪いことをしてしまったら、自分は何かから外れてしまったのだと、人はそう思ってしまうみたいだ。
疎外感に苛まれて、道を外れ出す。
一度そうなったらなかなかもとには戻れない。

そして道から外れてしまった疎外感を罪っていう大きい背徳のものにすり替えて、もっと大きくして、人を貶めるのが悪魔なんだ。

僕だって半分悪魔だ。
人が落ちていく様を見ていると、悲しくなるのに、ちょっとワクワクしている。

ほうら見ろ!人が落ちていくぞ!って。
目がギラギラ輝いて、もっと落ちろ、落ちろ、どこまでも落ちて、もう這い上がれなくなるまで無茶苦茶になればいい!・・って。
そう、パトリと同じようなことを、僕もどこかで思ってしまっている。
心の奥の奥の、深いところで・・・。

僕の中はいつも複雑で、気持ち悪くって、怖いんだ。
ルーミネイト様からもらったこの紋章。

これで地獄のゲートを開くなんて、そんなことをして・・僕は・・・許されるのかな?天使でいられるかな?
再びまた、あの天界の地に、帰れるのかな・・・?

ヴァイオレットは、そのいかにも悪魔らしい紫の髪と金の目の姿を野に晒して事故現場を眺めていた。
自分の存在と自分の行動の善悪を問い続けながら。



カタカタカタカタ・・・、トットットットット・・、規則正しい音が柔らかい光の中で鳴り響く。
混濁した意識の中で、太陽の光のようなその優しく柔らかな煙のような物体に包まれている自分を認識する。

「無茶をしたねぇ」

男の声だ。人間で言うと、30〜40代ぐらいの声だろうか。細めで優しいちょっとガラガラした声質。
柔らかい煙の中に、天使は包まれていた。天使は傷だらけで、治療のために煙状のカプセルみたいなものに入っている。

「・・・あなたは。」

天使がか細い声を鳴らした。
「どうしてあんな無茶をしたんだい、ダンテ。」

ダンテ、そう、傷だらけの天使とはダンテだった。
無茶・・の一言を聞いて何かを思い出したのか、ダンテの目が急に開かれる。

「あ・・!」
ダンテは咄嗟に起き上がろうとするが、煙状のカプセルの上から丸い光のようなものが幾つも光っていて、
その丸い光がダンテの動作を妨害した。

「・・駄目だよ、今は治療中だから。」
男はか細い両手を開いてダンテの方に向け、手先で繊細な動作を行なっている。
どうやらこれが天界の治療方法らしい。
丸いものが光ってその大きさをミリ秒単位で変化させ、ダンテの体部位に直接何かを作用させている。

「トッヘル!」
男はトッヘルと呼ばれた。このトッヘルニッセ・ヘッシエーダはダンテの叔父で幼いダンテを育てた人物でもあった。

「俺をもとのところへ!」
ダンテの表情には焦りの色が見え、しきりに男に何かを訴えようとしている。
しかしトッヘルはゆったり落ち着いた目で治療をしながら、沈黙を保っている。ダンテの方を見る様子はない。
「聞いているんですか!」
トッヘルは手先の微細な動作をしばらくしてから止めて、こちらを向いた。

「聞いているよ、永凍宮の、保管所に足を踏み入れたと。
監視天使たちを何人も傷つけての侵入だとも聞いているよ。正気の沙汰ではないねぇ。」

事の重大さとは裏腹に極めて柔らかい声で話すトッヘル、いつも温厚な彼の口調からは感情の起伏というものが読み取れない。
「あなたも俺のことをおかしくなったと思いますか?」
ダンテのよく見せる目つき、相手を少し牽制するようにぐっと真っ直ぐ大きく目を見開いて目の前の者を見上げるのだ。

「いいや。だがどうしてかな。」
今度は人差し指と中指を交互に動かしながら、何かを巻き取るような動作をしているトッヘル。
「ルーミネイト様にお会いしたい。いえ、それより前に・・。」
ダンテは彼女のことばを思い起こす。



死神と自称した無垢な少女。レナシー。彼女は確か、こう囁いていた。


―――――こっちに来れば良い。
―――空間を超え、次元を超え、世界を超え、全ての秩序を破って、こちらに来ればいいの。
――――たのめばいい。両方の存在を持つものに。



両方の存在を持つもの。誰のことだ?
両方・・か。
非常に癪ながら、一番に思い当たるのがヴァイオレットというのが解せないが。

両方の存在・・・もうひとつ思い当たるのは・・ホドン。ホドンローグ。
あの物体は陰陽2つの相反する物体をその内に秘めていると聞く。

どちらにせよ、ヴァイオレットは今天界から追放中だろうから、俺が会いに行けるわけもない。
それなら俺とヴァイオレットに関する記憶を・・永凍宮から探し出すのが最も有力。
ホドンに関する情報もそこにあるかもしれないし、もしくは・・・天界貯蔵図書館か。

あそこは厄介だな。下手するとイコンと戦うハメになる。それだけは避けたい。
数少ない俺の側についてる天使を今回のことで敵に回してはならないからな。
まだまだ先は長い。味方は多いほうがいいんだ。

ダンテはそう思案した後、彼にとって最も損害が少ないと判断した永凍宮に乗り込んだのだった。




「ルーミネイト様・・?どうしてまた・・。」
トッヘルの言葉でダンテは我に返った。

「あ・・・いや、それよりトッヘル、あなたは俺達の育ての親のようなものだ。
だから何か、俺達が生まれた時のことについて、何か知ってるだろ?」
まっすぐダンテを見つめていた眼差しは、再び手元に戻り、相変わらずトッヘルは手先を動かしダンテの治療を続けている。

「何か・・?少なくともルーミネイト様の居場所ならわからないねぇ。書斎に篭るのも飽きてこっそりお出かけになられたんじゃないかい?」
「そんなことあるワケないだろう!大事な御役目と俺達を放っぽり出して・・」
ピピーッ。何か音がなって光の小さな細い光線がトッヘルに向かって放たれた。
それが目にあたって少しシワの入った小さめの目をパチクリするトッヘル。

「まあ、彼にも色々とあるんだろう。そんなことで部下が無茶をしたら悲しむんじゃないかい。」
糠に釘、暖簾に腕押し、まさに、ああ言ってもこう言われて、話の真髄に辿りつけない。
業を煮やしたダンテは、今まで天界で起こったことを話し始める。

隠居の身であるトッヘルは、天界の情勢に疎いのかもしれない。
ダンテが体験し、目の当たりにした天界で起こった危機を、トッヘルにも共有させる必要があった。
話を聞き出すにはそうするしかない。


「・・・ということなんだが、ちょっとは切羽詰まった状況だということ理解してくれたか?」
「・・はぁ、まあ、ダンテも色々大変そうだねぇ。」
やはり相変わらずな平和ボケ口調である。こんな調子のトッヘルに、ダンテの口からは思わず溜息が。
「あのな!だからトッヘル!ルーミネイト様を助けるためには第七層に行かなくちゃならない。」
「ほぅ、ダンテはもう第七なんかに行けるようになったのかい、すごいねぇ。」

違う・・・!そうじゃない・・!
全く何なんだこの・・どんなに真剣に話しても、吹き抜けていく風のように手応えがないこの反応は!
ダンテは若干苛立ち気味だ。
それを見てトッヘルがますます穏やかな調子でダンテを宥めようとするが、かえって逆効果だ。
こんな実のないやりとりがしばらく・・いや長い時間続いた。

ダンテはもう、ゲンナリした顔つきだ。一生懸命説き伏せるのをついに諦めたようだ。
「ハァ・・・だからだな・・・、その、なんだ、何を話してたんだった・・?」
「ダンテ、治療中なのに疲弊するなんて面白いねぇ。でも大人しくしてた方が良いんじゃないかな。」
「誰のせいだと・・!・・あそうだ、思い出したぞ、確か両方の存在の話をしてたんだ。」
「本当に根気がいいねぇダンテは。昔からの君の長所かな。」
「長所・・そもそも俺に短所などありませんよ。・・いやそうじゃなく!両方の存在が・・」
「あ、右手動かしちゃいけないな、まだここからここまで治療中。」
「あ、すみません・・。」
「・・この治癒薬、飲む?りんご味。」
「あ、はい、いただきます!」
「う〜ん、私が調合したんだが、中々いい具合だと思うよ。」
・・・すっかりトッヘルの調子に乗せられてしまうダンテ。
そんなこんなで、話の方向がダンテの意図するところに辿り着くまでにかなりの時間を要した。
「光が上りだした。もう夜ですね。」
「そうだね・・。」

天界の昼と夜。それは人間界のように太陽の動きで決まるものではない。
光がすべての構成物質である天界では、常にあらゆる光が循環し、結合し、移動し、変換されて相互に影響を及ぼし合っている。
そして天界がその形を保つための膨大なエネルギーは神界から降り注がれる。
天界城の最上階が神界にも繋がる神の居場所だと言われているが、ちょうどその辺りから光が降り注がれて、
天界全土を巡り、人間界で言う水のように、人間で言うと血のように、天界中にエネルギーを運ぶのだ。
そのエネルギーはもとのままでは認識することが難しいが、別の光のエネルギーに変換されて、
またはほかの光と結合して、その一部の光はやがて天使の誰もが認識できる光の粒となって、雪のように天界に降り注いでいるのだ。
しかしその光の粒は、一定期間天界に降り注ぐと今度は上昇を始める。

まるで天が、息を吸って吐くように、光の粒はある一定期間降り注がれると、今度は天に吸い込まれるように昇っていくのだ。
人間好きな天使たちが、人間界の真似をして、これを昼と夜と言うようになった。
これ以外にも、人間界の影響を受けた天使たちが、人間たちの概念を天界に取り入れたものは数多くあるらしい。
一部の天使たちはこの人間ちっくな概念や呼称を非常に面白がって楽しんで使っているが、
一部の天使たちは、天界を人間界のようにされてしまっていることが不快なようだ。

「光が上りだしたんだ、君も休息していなさい。」
 「あ・・はい・・。・・・・・・。・・・・ん?」
「これを飲むと良い、温まって浄化されるはずだからね。」
 「どうも・・なんか幼少の時代に戻ったみたいだ。」
「それはよかった。私も久しぶりにダンテの世話が出来てうれしいよ。」
ダンテはトッヘルに挨拶をして、眠りに就いた。
トッヘルはダンテを見つめ、目を細めながら羽でダンテの周りを覆った。
覆われた羽が取れると、そこには光の煙が出来て、ダンテを深い眠りと治癒へと誘った。

次に目覚めた時にダンテは気づく。
トッヘルに、大切なことを何一つ聞き出せなかったということを。
それどころか、自分は持っていた情報を殆どトッヘルに話してしまっている。

こんなのは対等じゃない。というより損した気分だ。
自分だけ貴重な情報を提供するだけ提供して、肝心のトッヘルからの情報が聞き出せなかった。
ダンテはトッヘルを探して、再びトッヘルから情報を引き出そうとしてみたが、
トッヘルは相変わらずの調子で、まるでまともな答えは返って来なかった。

天界の住人というのは中々こういう話の通じない独特の平和ボケオーラを持った奴が多いが、
ダンテの攻撃に対してまったく掠りもしなかったトッヘルの反応に、ダンテはやや違和感を覚えた。


・・・・・まさかとは思うが、わざとはぐらかしているのか?
はぐらかしているのかいないのかさえ判別しにくいトッヘルの反応だが、
これ以上の問答を続けても不毛に終わるということだけははっきりしている。
そういうわけで、ダンテは再び永凍宮を目指した・・いや、目指そうとした・・・。が。

何と言う用意周到さだろう。トッヘルはダンテが再び永凍宮を目指すことなどお見通しだったらしい。
トッヘルは治療と称し、ダンテに力封じと、ある一定の領域に近づけなくする魔法をかけていた。
力封じの魔法はとても強力なため、敏感なダンテなら気づくようなものだが、
長時間にわたって何重にもゆっくりと魔法をかけていたらしく、しかも恐らく眠りの魔法と併用してかけたのであろう。

手が込んでいるとしか言いようがない。そしてそんなトッヘルの策略に、ダンテはすっかり嵌ってしまったのだ。
ダンテは頭を抱えて項垂れるしか無かった。・・・なんて失態だ・・。育ての親だからと油断した・・・。

もちろんトッヘルに悪意などは全くないはずなのだが、ダンテとしては、前途を完全に挫かれてしまった。
力も行使できず、目的の永凍宮にも踏み入れることが出来ない。
こうなっては出来る事を探すほうが困難である。

途方に暮れた末、ダンテはいつもの習慣からか、自然と天界貯蔵図書館の方に足が運んでいた。



相変わらず降り続く雨で、辺りはじっとりとしている。
街灯が僅かに周りを照らし、その水浸しになった道が辛うじて把握できる。
霧は発生していないので、前日よりも見通しが良い。
そして今日も、少年2人が昨日と同じように対峙しているのだった。

「おそ〜い!約束は遅れてくるモンなんだ?!置いてこうかと思ったよ。」
もう・・・ここには来たくなかったのに。
事故現場。56人の死者が出たらしいこの恐ろしい正邪が蠢く生々しい場所。
ヴァイオレットとパトリは、ここに、今、魔界ゲートを開こうとしていた。
パトリは今にもゲートを開き始めんばかりのノリノリな調子だが、
ヴァイオレットにとってはそれよりも、無視しがたい現状がそこにあった。

「どうして・・・」
「ん、なに、早くやろうよ、バッジの力かいほーしてん。」
「どうして・・・・・こんな。」
ヴァイオレットの声は震えていた。

「何が、アンタ帰りたくないのかよ。」
一向に協力しようとする気配のないヴァイオレットを見て、パトリが苛立ちの声を発した。
「パトリ、お前がやったのか!?」
ヴァイオレットの爆発した怒りがパトリに向けられた。

無理もない事だった。
遺族たちの心のこもった花束が置いてあったはずのところには、花だったものの残骸が飛び散って、
泥水と同化してゴミのようになっていたからだ。

「・・っつ、なんだよ、僕じゃないって。何でもかんでも悪魔のせいにすんなよ頭ワリィ〜」
突然不良っぽい口調に豹変したパトリは舌打ちとともに体を逸らした。
「・・じゃあ誰がっ・・・!?」
「ゴミはゴミらしく泥水に塗れてりゃイイんじゃない〜?すごく似合ってると思うなぁボク。」
笑えない明るさで髀肉気味に花束だった残骸を罵ってみる。
「これ誰がやったって言うんです!」
今にも飛びかからんばかりのヴァイオレットを見て、コイツをなんとかしないと魔界ゲートが開けられないと判断したパトリは、
とりあえず素直に説明して見せた。
「事故ったトラックの運転手のダチと他の遺族がケンカしたんだよ。
なんかトラックの馬鹿親父のせいで家族亡くしたのがムカついたんじゃないのー?」

パトリによると、事故が起こったのはそもそもトラックの運転手が酔っていたかららしい。
そしてそのトラック運転手の事故が引き金になり、何台もの車と、さらに歩行者が犠牲となった。
遺族たちからすれば、トラック運転手を恨むのは無理もないことだが、どうやらトラック運転手の友人がガラが悪い人間らしく、
この友人の態度の悪さで遺族たちの怒りが爆発し、大きなケンカに発展してしまったそうだ。
遺族の怒りの反応によってさらに激怒したその友人は、遺族たちの手向けた花を踏みつけにして蹴散らしたらしい。
あろうことか、惨事が起こったこの不幸な場で、2度めの不幸が起こってしまったのだ。
結局、ケンカは他の遺族たちに鎮圧されたが、そのケンカには多くの人が巻き込まれ、心も体も負傷するはめになってしまった。
遺族たちの心には、傷口にさらに塩を擦り込まれたような激痛が伴い、
その事件は益々深い深い心の傷となって遺族たちの心に根強く残ってしまったのであった。

「パトリ、ホントに君は、何もしてないんだな?」
普段見ることのないとても鋭い目でギッと睨みつけるヴァイオレット。
「これが人間の所業だよーー、片羽ちゃんも長いこと見てきたことじゃない。片羽ちゃん何年生きてるのさ。」
「第三周期が来てから・・今は千年ぐらい。」
「うひゃっ、短っ!片羽ちゃん案外ぼくと年齢いっしょぐらい〜?」
「さぁ、そんなことどうだっていいよ。」
むっすりした顔で、花だった残骸をひとつひとつ拾い上げるヴァイオレット。
「な・・・ちょっと・・・なにしてんの?」
思いもよらぬ行動に、パトリは珍しく戸惑いの表情を見せた。
「何って・・、こんなことになったままじゃ可哀想でしょ。」
「・・・・・・・・・。」
うっわーー・・・信じられない、といった表情でパトリはヴァイオレットの方を見つめる。
パトリに言わせれば、ヴァイオレットのこういった行動は、すごく「キモい」らしい。
パトリにとってはあまりの衝撃で、彼はしばらく言葉を失った。
ヴァイオレットの方を、ものすごく嫌なもの・・ゴキブリでも見るかのような目付きで見つめてくる。
パトリはしばらく立ち竦んでいたが、やがてヴァイオレットの右手を両手で掴んだ。

「やめ!やーーめ!もうやめ!そんなキモいとこ僕の前で見せないでよああウザッ!」
見ていることが耐えられなくなったらしく、パトリはヴァイオレットを妨害し始めた。
「ちょっと・・・どいて・・離してくださいって!ぼくちゃんと元通りにお花を飾ります!」
「・・・なっ・・にコイツ、天使ぶりやがって・・」
小さい声で酷く汚く鋭い声がパトリから聞こえた。

パトリはしばらく傍観していたが、ふと、何かを思いついたように姿を消した。
ヴァイオレットはパトリの姿が見えなくなったため安心して泥に混じった花の残骸を拾い集めようとする。
・・と、その時。

ジュワッ!

と、何かが溶けて高熱により蒸発するようは激しい音が周りから・・、
そしてヴァイオレットの手元からも聞こえた。
ヴァイオレットは一瞬何が起こったのか把握できなかったが、自分の手元を見てその状況を掴んだ。
赤黒い液体となって全ての花の残骸たちが消滅してしまったのだ。
そう、こんなことをするのは・・。

「もうお前なんて待ってらんない。僕は一人でも魔界へ帰るよ。お前を生贄にしてね!」
「パトリ・・!」

パトリは予め魔界ゲートを開くために用意してあった魔法陣を起動させ始める。
「えいやっ!」
パトリが面白そうに人差し指をちょんと弾く動作をすると、その瞬間四方から鋭利なものが飛び出しヴァイオレットを捕らえた。
ヴァイオレットはその瞬間に自分の置かれた重大な状況に気付かされる。
パトリの素早い魔法でヴァイオレットには防衛の時間がまるで無かった。
黒い鋭利なものに囲まれたヴァイオレットは、もはや籠の中の鳥。どうすることも出来ない。
この鋭利なものを壊そうとしてみるが、あまりの丈夫さで、ひび一つ入れることが出来ない。

「はいほ〜い、時間だよ〜ん!皆さんおいで、手のなるほうへっ!」
空に渦巻くものが出来始めた。ものすごく大掛かりな何かが、出来上がろうとしている。
楽しいリズムが聞こえるが、それは悪魔にとってであって、これは断末魔の序章かもしれない。
空に大きな渦巻きが出来、辺りの色が変わり始める。
パトリは、秩序も均衡も破って、こんな大掛かりな呪文をしかける気だったのか。
ヴァイオレットは自分の軽率さを責めた。
だが時は既に遅く、周囲から悪魔たちの悍ましいゲラゲラ声が聞こえ始める。
人間界に取り残されていた悪魔という悪魔が、大勢大群になってこちらに押し寄せてくるではないか。

「さあみんな!ここを地獄に変えよう!ここに魔界を開くんだ!」
パトリが手を空に掲げ、悪魔たちは一斉にゲートに力を注いだ。
悪魔たちの笑い声とリズミカルな音が、周りを黒く、黒く染めていく―――。
―――もう望みなんて無い。ここには。
そうここは、これから地獄になる。


生きる地獄はここから広がり、人間たちを黒く染めるだろう。
そして地獄の賛美歌が毎日毎秒大きな惨事を引き起こし、
絶望のメロディーは空を赤く濁して天界に刃物を突きつける。
神は死んだと皆は嘆き、やがては神という存在すらも忘却する。
天界は綻び、やがて崩れ始める。見掛け倒しの天界が崩れれば、
ぼくたち悪魔の刃は直接神の喉元に!
グサリ、ああいなくなれ!世界はぼくたち悪魔で満ち満ちるんだ!
ああ満たされる、虚無と孤独と深遠なる愛しき闇。憎しみが神の心を殺して、すべてを悪魔に換える。
もう光なんて無くなった。光が無くなり闇もなくなる。

そうぼくたちの世界。これがぼくたちの世界さ!
弱いものは死に侮辱を味わう。強いものはその虚しさと孤独で自らを殺すだろう!
ああ黒き世界。黒が支配する、これがすべて。これが世界のすべてさ!
亡霊となれ、奴隷となれ!やがて自分が何者かも忘れ果て、抜け殻のように、ゴミのように!
それがぼくらの成れの果て。そしてぼくらの食するエナジーさ!
すべてを否定し、すべてを忘れ、這いずり回れ!
あるのは絶望。あるのは死。あるのは苦痛。あるのは無限。
さあ賛美して、歌え踊れ!地獄のゲート、黒きその存在よここに現せ!



悪魔たちの楽しそうな合唱に囲まれて、事故現場には、魔界ゲートが現れ始めた。
空間が歪み、中から異質なものが飛び出してくる。
それは絶対に飛び出してはならないもの。人間界に入れてはならないものだ。
ヴァイオレットはこの物質によって何度も命を奪われかけた。
あらゆる命を死へ追いやり、殺してしまう物質。
こんなものが人間界にはみ出てくるなんて・・。
ヴァイオレットはパトリに手を貸そうとしたことをひどく後悔し、必死になって止めようとする。
「いやだ・・・。いやなんだ・・・・・。人間が、人間界が魔界のようになることだけは・・!」
ヴァイオレットの中の天使がひどく抗い始め、そして、暴れだす。
手当たり次第に攻撃をしてみるが、ヴァイオレットを覆っている柵みたいなものも、開かれていく魔界ゲートにも、
何一つ傷を負わせることが出来ない。

それもそのはず、もはや数すら定かでは無い無数の悪魔たちが一斉に魔界ゲート開闢に力を注いでいるのだから。
「ああ、やめて、やめてよ・・・!それだけはっっ・・・・!!!!」
僕は人間界に、そこまで愛着なんてものは持っていないつもりだった。
でも・・いざ、目の前の魔界ゲートが開かれるのを見て、この今ある現場がとても恐ろしくなった。
それとともに、今まで出会ってきた大勢の人間、今まで関わってきた、その生命の生き様を見届けてきた大勢の人間たちの顔が、
次々と浮かんできて頭から離れない。

僕はここで、おばちゃんが買い物袋を下げていそいそと家路に就くところや、
公園で子供が遊んでいて、母親や、たまに父親も迎えに来るところ、
サラリーマンが酒に酔ってラーメン屋で愚痴をこぼしているところ、
人間界の、あらゆる場面を見てきたんだ。
面白かったり、悲しかったり、馬鹿馬鹿しかったり、不思議だったり、
でも僕はきっと、人間たちによりそって、人間界とともに生きてきたんだ。

人間の善い所業と悪い所業を記録するための監視役、そんな役目を任じられた時、最初僕はなんの興味も感じなかった。
あるお婆さんは、これまで悪いことをいっぱいしてきた人で、30代ぐらいになって、命を絶とうとした。
自分の人生が嫌になったんだ。好きで悪いことばっかりしてきたワケじゃないけど、
何故かそうせざるを得ない環境にいて、でもそんな自分の人生を振り返ると、後悔の念ばかりが過ぎって仕方がない。
だからあるとき、自分の中の罪の意識に囚われて、それから逃げたくなった。
でも、逃げても逃げても、救われなくて、逃げ出せない。永遠に救われないんだ、自分は。そう彼女は思ったんだ。
そう思った瞬間、人生が絶望に変化して、周りの景色が、未来が真っ暗になった。
でも、彼女はひとつひとつ、道を新たな方向に紡いでいった。僕はそれを悉に書き留めてきたんだ。
善い事を一つして、でも悪いことを10つもしてしまった。
でも今度は善いことを2つして、悪いことは7つに減った。
また今度は、善いことは出来ずに、でも悪いことは13もしてしまった。
そんなことの繰り返し。亀の歩みのごとく、彼女の進歩もゆっくりで、でも彼女にはどこかに、確かな意志があったんだ。
もうこれ以上、悪いことをする人生は嫌だと。
自分の中の絶望と闘いながら、彼女は確実に自分の意志で、人生の行き先を変えたんだ。
奈落行きの彼女の人生の道が、0.1度変わり、また次は0.00003度変わり、ほんの僅かな、根気のいることだった。
彼女の意志の強さがそこで試されたのかな。
最初は後退することの方が圧倒的に多くて、その度に絶望と悲しみに打ちひしがれていたのを僕はよく見ていたよ。
「もうダメだ、私は根っからの悪人だから、どうしようもないじゃないか」
そう言って、よく周りの人間に八つ当たりしていたね。
でも意志は変わらなかったんだね。
君はあれから50年という壮大な月日をかけて、みんなから愛されるお婆さんになったじゃないか。
僕はそれをよおく知っているよ。
お葬式をしてくれる親族がいなかったのに、周りの知り合いが、血の繋がっていない他人なのに、
みんなでお金を出し合って、盛大なお葬式をあげてくれたじゃない。あれが君の生き方の最終結末なんだ。
君は泥水を飲みながら清い水に変えていったんだよ。
僕はその苦悶と喜びの日々をすぐ近くでずっと見ていたんだ。
人間はとってもすごいんだ。美しくて、根気があって、とても強い。僕なんかよりずっと強い。

僕はそんな凄い人間たちが、魔界に飲み込まれるなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
もう間に合わなくなる。僕は護る。人間界を、僕の天使の力で、どうか護らせて。



―――その時だった、ヴァイオレットの周りの鋭利な黒い柵が光り始め、そして・・

「ウアァァァァァッァアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!!」

ヴァイオレットの絶叫とともに、彼の力が搾り取られ始めた。
柵は彼のあらゆる部分から、エネルギーというエネルギーを吸い取り尽くし、魔界ゲートに注いだ。

なんだよこれ・・・こんなのって・・・ある?
ものすごい勢いで力が無くなってく・・・・。反抗する余裕も隙も無いよ・・・。

僕は人間界を守りたいのに・・・そんなことも出来ないなんて・・・・なんて・・・グズなんだろう。ウウウッ・・!
僕の意志なんて、・・・さいしょから、どうやったって叶わないものなの?

もうぼく・・・・なんで生きてるのか・・・・わかんないや。
いったいぼくって・・・何だったんだよ。
僕の意志すら・・・・・貫けないの?

薄れ行く意識の中でヴァイオレットは、ぶつけることの叶わない無念と怒りを・・自分に対してぶつけた。

馬鹿・・・・ばか・・・・・、・・・・ぼくの馬鹿・・・・。もうダメ・・・だ。・・・・・。
何もかもが・・・・もう・・・・・・・。たすけたかった・・・・・・・。
・・・・・・・・・。・・・・・たすけ・・・・・たかった・・・。
まもって・・・・みたかった・・・、最後に・・。最期に。


・・・・最期にぼくの意志を・・・・・・。













―――白い意識。無は白という色をしているのか?

―――――無。

そこには無だけが世界を覆っていた。
命が絶たれる時に、最期に通過する場所。これがそれかもしれない。
ヴァイオレットの命は終に尽き果て、彼の最期の結晶はこの白の空間の中に・・・。
これが死―――――




・・・ウォン、ウォン、ウォン。
高くて奇妙な音が、回転している。
真っ白な視界の中で、音だけが認識できるなんて。
ここは・・・何?


音は光となって、自分の意識に接触する。
・・・なにかモゾモゾと聞こえてくる。内側から?
・・・なんだろうこれ、どこの言語?

高音で回転するそれは、やがて、言語のようになり、
意識に直接語りかけてくるようだ。

意味を成さなかった言葉のようなものは、やがて、収束し始めて、理解できる言葉になっていく。

ぽつん、ぽつん・・・。

雨の降りはじめのようなリズムのそれは、やがて徐々に速度を上げて、意識の中を駆け巡り始めた。
―――自然のリズムのように柔らかで、微かで、そしてやさしい。
まるで耳元で妖精が囁いているようだ。自分は死んで自然と同化してしまったのかも。

これが宇宙の、大地の一部になるってことなのかな。
意識はゆったり漂う波のように穏やかで、とても心地よい。
先ほど感じていた激痛と悔しさなど、もう遠い昔のことで、すっかり意識からは消え失せてしまっているみたいだ。



・・ふと、青いものが自分のところへやってくるのを感じた。
なんだろうこれ。
青いものは自分の中に触れると、そこにビジョンが現れた。
青い。青い。なんだろう。・・・宝石みたいに光り輝いている。
・・・地球?そうか、これは地球なのか。でも随分と若い。赤ちゃんみたいだ。
初々しくて、その純粋無垢な青い光を宇宙に放って光り輝いている。綺麗だなぁ。
僕は本当に自然の一部になったのかもなぁ。



・・・あれ?一点だけ、ほんの一点だけ黒いものが出来てる気がする。なんだろうこれ。
・・・・黒が・・・黒いものが少しずつ、少しずつ広がり始めた。
癌みたいなものなのかな。一気に他の細胞を侵食するように、周りを侵し始めた・・。

黒い・・黒いのが広がっているよ、みんな助けたいのに助けられない。
地球の自浄作用が一生懸命あの黒いものを取り除こうとしているのに、
減っては増え、減っては増え・・・気持ち悪い。本当に癌みたいだ。なんであんなものが・・。
綺麗な星が侵され続けてる。ああっ、ついに黒いものが一定以上増えて・・・魔界が、魔界が完成した・・!
黒がどんどん侵食してる・・ものすごい・・どうしてこんなに荒れ狂う猛獣のような勢いがあるんだ・・。

獰猛で、すべてを顧みず、自分さえも顧みない、手段は選ばず、あらゆる野心のために世界中を巻き添えにする。
この黒の侵食具合は、悪魔そのものを見てるようだ。
・・ああ・・助けないと。青い地球の輝きはどんどん薄れて・・このままでは消えてしまう。
青い光が無くなって・・黒になるの? 地球がすべて、魔界に飲み込まれる?

・・・魔界!・・・・そんなのはダメ・・ダメなんだ・・・!
そんなことは絶対にさせない・・・・僕はさせたくない・・・!
僕が半分悪魔でも・・・ぼくはこれを守り抜きたい・・・!
どうかっ・・・・、どうか僕に、これを・・・、この地球を守らせて・・・!!!!



ヴァイオレットの意識の中に、彼の強い意志が蘇った瞬間・・、辺りは再び真っ白に・・!
無我夢中で魔法を唱えてみる、ここがどこで、自分が何になったのかさえもわからないが、この現実に抗いたかった。
抗うことしか、方法が見つからない。

・・とにかく僕は、自分の意志を叶えたいんだ・・!
必死の抵抗を続けていると、ふんわりしていた意識が、突然ズシッと、ものすごい鉛のような重みを帯びた。
痛い・・硬い・・・重い・・・急に何もかもの自由を奪われて、そう、磔にでもなった気分。




「・・・おはよう。」
とても低いトーンでその声は僕に放たれた。目の前には悪魔たちが大勢こちらを見つめている。
僕を食べようと狙ってる者、ニタニタ嬉しそうに薄気味悪い笑みを浮かべている者、狂気に満ちた目で見つめてくる者、様々だ。
僕はあまりの光景に、子鼠のように縮こまったが、やがて自分の身の異変に気づいた。
体は骸骨のように痩せ細って、オマケに傷だらけ。
そして一番の異変が、胸のあたりにあった。

「・・・・・大天使の紋章・・が、ない!」
見れば魔界ゲートが半開きのまま、止まっているではないか!
・・・何があったんだ・・。
悪魔たちは行き場を失って、こちらを睨んできたり、はたまた半開きのゲートを無理やり通ろうとしている。
ちょっとおもしろい光景だ。

・・・でも、どうしてこんな状況になったんだろう?
・・・・バッジ?この大天使の紋章のお陰?
でも僕の体は衰弱しきったお爺さんのようになって、立つことすら出来そうにない。
・・どうしよう、魔界ゲートが止まったのは良かったけど・・これじゃあ僕、今にも・・。
今にも悪魔たちに食べられてお終いになりそうだ・・・!!!!!
急に冷や汗が滲みだす。でもどうしようも出来ない。
今僕の自由になることといえば、手先が僅かに動かせるぐらいだ。
足はもう言うことを聞かないし、体中あちこちが痛い。痛いのを通り越して、激痛で体中が麻痺している。

・・ああ・・、せっかく僕は、人間界を守れたかもしれないのに、これで終わりなんて。
でもどうせなら、悪魔に食べられるんじゃなくて、ローザ先輩の胸の中で死にたかったな・・。
うん、いや、別に、胸ってのは変な意味じゃなくって・・・あれ、僕何自分で言い訳してるんだろ。


色んな想いが頭を駆け巡っていくが、しかし、暫くしてあることに気づく。
「・・・あれ?」
・・・悪魔たちが静止してこちらを睨みつけたまま、一向に襲ってくる様子が無いのだ。
相変わらず一部の悪魔たちは半開きの魔界ゲートを通ろうと必死だが。
よく見ると、悪魔の群れの中から、何かが蠢いている・・ような気がする。
悪魔の群れ・・・から魔王でも現れるというのか?
ヴァイオレットは恐ろしい想像をしながら体をこわばらせた。
悪魔たちはちょっとずつ横に退き、なにか動く者の体の一部が見える。
黒・・?・・否。これは・・。

「・・・・人間?」
悪魔の群れから現れたのは、なんと人間らしき人物だった。
想像と遥かに違った姿を見て、唖然とするヴァイオ。
その人間らしき人物は、こちらを見て、ふっと首を傾け笑顔を見せた。
やや痩せてはいるが・・見た目からして男だろうか。
悪魔たちはその男を見ても、取り込もうとも食べようとも殺そうともしていない様子だ。

・・いったい何が・・。
もしかして、もしかすると、僕は一旦死んで、で、ここは夢のなかとか・・・。
それにしてはリアル過ぎるような・・。
この独特の神経の痛みも夢なんかでは感じられない・・はず。
・・やっぱりここは現実??


そんなことを考えていると、男はなんと、生身の体で魔界ゲートを通ろうとし始めた。
男はするりと半開きの魔界ゲートをいとも簡単に抜けて、半開きの魔界ゲートは幾分か状態が安定したように見えた。
男が魔界ゲートの中に入ると、悪魔たちが次々と魔界ゲートに入っていくではないか。
通ることが困難だったはずの半開きの魔界ゲート、それがどうしてだか通れるようになっているみたいだ。
大勢の悪魔たちが勢い良く、まるで魔界ゲートに吸い込まれるようなスピードで、次々とゲートの中に入っていく。
そういえば幸い、魔界ゲートから出ていた悪臭と異質な物質が飛び出さなくなっている。
・・なんだろう、僕の意識が真っ白になった間に、何が起こったって言うんだろう。
でも大天使の紋章は消えているから、きっと僕が・・・ううん、僕なんかの力じゃなくて・・この紋章が止めてくれたんだきっと。
結局僕自身の力ではなんにも出来なかったけど、でもひとつだけ大切なことは、僕は自分の意志を叶えられたってことなんだ。
僕の最期の意志が無碍にされることなく、世界は、この紋章は、僕の意志を叶えてくれたんだ。
・・もう、それだけで良い気がする。もうこれ以上自分を責めるのはよそう。いつかもっと強くなれたのなら。
大天使のように、強い力を持てたのなら、僕は自分の力で、自分の意志を叶えられるように、なるかもしれない。

・・と、その時、男がひょっこり魔界ゲートから顔を出した。
気づけば辺り一面を覆い尽くしていた大量の悪魔が居なくなっている。
もうこんなに早く、悪魔たちは魔界ゲートをくぐったのだろうか。
悪魔たちの素早さと要領の良さだけは見習いたいものである。

「魔界ゲート、くぐります?」
男はどうやらヴァイオレットの方に話しかけているようだ。
「え?あ、は、はい、でも・・」
・・魔界に行きたい、でも足が・・体中がもう既にひどい損傷で悲鳴を上げている。
足もぴくりとも動かないし、そもそも感覚がもう無いのだ。
男はそれを察してか、こちらに突然やってきて、体の状況を観察している。
ひと通りヴァイオレットの体を眺め終わると、ひょいっと、ヴァイオレットを抱え上げた。
「痛くないですか?」
「え・・、あ、はい。」
思いもよらぬ行動に狼狽えるヴァイオレット。
男は構わずヴァイオレットを抱き抱えたまま魔界ゲートに歩いて行く。
人間界のかの有名なお姫様抱っことかいうものを、まさか坊主にしてもらえるとは思いもしなかった。

「あ、あの!僕ですね、魔界には行きたいんですけど、そのっ、もう大天使の紋章も無くなっちゃって・・えっと・・」
慌てると口ごもってしまう。ヴァイオレットの癖の一つである。
男は歩みを止めて、優しくじっとヴァイオレットの話に聞き入っている。とても落ち着いた様子だ。
「えっと・・だから、えっと、・・今魔界に行っても自分の体を守れないっていうか・・悪魔にやられちゃうんです。どうしたら・・」
どうしたら・・いいか?そんなもの人間に聞いてどうするんだろう。でもどうしたら・・いいんだ。
優しく見つめて黙っていた男は、ゆっくりとヴァイオレットを地面に下ろして、口を開いた。

「私と一緒にいきましょう。治癒能力の残った悪魔がきっとあなたを治療してくれます。」
ぽかーーん。まさに僕はそんな表情をしていただろう。
悪魔が治療をしてくれる?そんな話聞いたこともない。
実際、僕は幾度と無く魔界に赴いたが、殺されかけても、治療されたことなんてあっただろうか?
そもそも悪魔は誰かを治療する魔法など持っていないのだと思っていた。悪魔が誰かを治療する様子なんて見た事がない。
大きな負傷を負っても、野ざらしにされるだけだ。だれも治療なんてしてくれない。
・・でも、その、悪魔が治療?何を言っているんだろう、ふざけている?妄想にとらわれている?
どうしてこの人間はそんな可笑しなことを言うのだろうか。
ヴァイオレットはその金色の目をまんまるくして、ただ男を見上げていた。
男はにっこり微笑んで再び尋ねた。

「魔界に、一緒に行きますか?」
ヴァイオレットは思わず瞬間的に頷いてしまった。よく考えもせずに。
後で後悔したって遅いのだ。悪魔に食べられても自己責任だ。
第一この得体の知れない人間は何者なんだろうか。そもそも信用に足る人物なのか。
この人間のホラ吹きのせいで死んだって文句は言えまい。

ヴァイオレットはどうしたことか、自分の中の警戒心が目一杯警鐘を鳴らしているのを全部無視して、男に従っていた。
男は再びヴァイオレットを抱え、ゆっくりと魔界ゲートの方に歩みを進めていく。
その一歩一歩が、ゆったりとして、どこか奥ゆかしい。
彼から伝わる温和な雰囲気を感じて、どこかリラックスするヴァイオレット。
もしかしたら・・この人は、悪い人じゃないのかも・・・。
ヴァイオレットは最後にそんなことを思い、疲労困憊の中で、眠りに就いた。



眩いばかりの輝ける命たちよ。
嗚呼愛しき命たちよ。
肩を落とし時にそこに絶望する者よ。
命を投げ出そうとする者よ。
己の光を見失った者よ。
富める者、貧しき者、大きな者、小さな者。
私はあなたを誘う光でありたい。
愛する我が子、そして我が親、我が同胞たち。
あらゆる存在がその光を内に宿し、その煌めきを知らずの内に放っている。
それは調和し宇宙のメロディーとなって私達に降り注ぐ。
あなた達の存在そのものが私なのであり、私は貴方と瓜二つの鏡同士、親子、親友、兄弟。
私はあなた方のあるがままの姿が最も美しく貴いと感じる。
時に道を見失った時、絶望に明け暮れた時、私はそっとあなたの光となって道を照らしたい。
あなたの傷を癒し、私はあなたの中の曇りなき光を照らして、あなたに証明してみせよう。
私はあなたで、あなたは私。
自分自身の光を見た時、あなたはなんと思うだろう。
あなたは自分自身の存在が何なのかご存知だろうか。
あなた自身の本当の光を見たことがあるだろうか。
あなたという無二の存在を、その真の尊さを認識して欲しい。
あなたは常に自由であり、私と交じり合って存在する。
私はただただ世界を見えないところから照らし、命を育む光であろう。
命を輝かすエネルギーを与え続け、あらゆることを実行する活力の源となろう。
あなたが行うことは皆神の行いであり、私の行いでもあるのだ。
どうか我が愛する者よ、あなたが自分を見出し、自分の意志を遂げられるように。
自分の中から、最上の美しき至高の存在を見つけ出せるように。
時に泥沼に嵌まり込もうと、どんなに暗闇に閉ざされようと、私は刹那の瞬間もあなたのもとを離れることはない。
私は永久にあなたのそばに居て、そして光となりあなたの足元を照らし続けよう。
それは微細すぎて、あなたは気づかないかもしれない。でも私はあなたに囁き続け、光となってあなたを癒し、生かし続けよう。
嗚呼、私はあなたの源。私は光。私は命。私はあらゆるエネルギー。
私はあなたを生かしたい。あらゆる命を愛し、生かし続けよう。
愛するあなたよ、太古の昔から、時が無くなる永久まで、愛し続けているあなたよ、
どうかあなたが平和であれ、充足に満ち足りたものであれ。どんなあなたになろうとも、私は必ずそこにいて、あなたを見ている。
私はあなたを生かし続けよう、あなたのエネルギーとなり、活力となりて、あなたを生かそう。



音楽のような言葉たちが、集まって形を成しては離れ、現れては消えていく。
どこかで聞いたような言葉のリズムだ。どこだったか・・・・。
何かを・・・・思い出しそうで・・・・・・。しかし意識がハッキリとしない。
しばらくぼんやりした世界の中に漂っていた・・が、急に目の前の視界がバッと開ける。
「あっ・・・!」
目の前の人物とバチッと目が合ってしまった。思わず目を逸らして、その流れで周りの景色を把握する。
ここは・・見たこともないところだ。
ふと、先ほど目を合わせてしまった人物を見返す。
「・・お坊さん!」
「・・お坊さん?」
ヴァイオレットが思わず口走った言葉。
目の前にいたのは先程ヴァイオレットを抱き抱えて運んでくれた人間。
そして彼は坊主頭だった。
男はその言葉を聞いて、つるっ禿の頭を軽く撫でて見せ、触ってみる?とお茶目に頭をヴァイオレットの方に向ける。
最初は遠慮していたヴァイオレットも、好奇心に負けて、そのつるつる頭を触ってみる。
面白い、髪がないってこんな感じなんだ。坊主頭って面白いなぁ。・・僕の坊主頭かぁ・・・。
ふと頭の中で自分の坊主姿を想像して、イメージが全然違ったので、咄嗟に頭の中の想像を掻き消す。
そのヴァイオレットの一連の動作を坊主頭の男は目をほっそりさせて非常に愛おしそうな目でゆったりと眺めていた。
そんな男の視線に気づき、ヴァイオレットは慌てて取り繕った。

・・・恥ずかしい。どうしてこの男の人は、ぼくをこんな目で見てくるんだろう。
・・なんだか、ちょっとローザ先輩と似てるかな?ローザ先輩とルーミネイト様を混ぜあわせた感じ・・。
でも・・。
・・でもその男の人には自分の知っている天使たちとはちがう、何かがあって、
ニオイは明らかに人間っぽいのに、今まで見てきたどの人間とも天使とも、
そして悪魔とも違う何かがその男は宿しているような気がしていた。



「気分はどうだい?」
男のほうをぼうっと見つめていると、急に話しかけられる。
考え事をして何を言われたのかわからなかったので、聞き返す素振りをする。
男はニコッと微笑んで、ヴァイオレットの体を眺めている。
「・・ここが、まだ痛む?」先ほどまで酷く損傷していたはずの足を男は指さした。
「え・・・、あ。・・・・あれっ!?う、動く!!!」
鈍痛と痙攣と麻痺によってガタガタに損傷していたはずの足が、想像とは全く反対の動作をみせた。
あまりの驚きに足を勢い良く動かしすぎてかえって足を少しひねってしまった。
男が心配して足に触れようとしたので、何事も無いように元気に振る舞う。
ヴァイオレットにとって、この男は自分の恥ずかしさを増幅させる存在だった。
何故かはわからないのだが、この男と対面していると、猛烈に忸怩たる気持ちになってくるのだ。
とてつもなく自分のちっぽけさが露呈してしまうようで、それが恥ずかしい。
光りに照らされて、僕の醜い部分、悪魔の部分やひどく未熟で幼稚な部分が姿をあらわす。
僕自身でも僕の中でそんな嫌なところを強く感じるうえに、
この男の目は僕の中のそんな部分までをも見られているような、そんな目をしているから、
だから猛烈に、拒絶し、自分を何かで覆い隠したくなる。

ローザ先輩の持つ独特の何かとちょっとだけ似ている。
ローザに見られた時の視線にも、僕は非常に弱いのだ。
そんなに僕を見つめないでほしい、僕の、僕の醜い部分を見ないでほしい。
僕の中のひどく暗くて黒くて汚い部分。そこが見つかってしまったら、ここに僕の居場所は無くなってしまう。
もし、もし万が一相手がここにいていいと言ってくれたとしても、
僕は自分というあまりに情けない存在を見られた事実に、裸足で逃げ出してしまうことだろう。
だからこんな僕をどうか見ないでほしい。僕という存在は誰にも見せたくはないんだ。
そして見せられるような綺麗な存在じゃないんだ・・。
ローザ先輩とか、ルーミネイト様とか、ダンテとか・・・、みんなれっきとした天使で、曇りなく美しい。
正々堂々とした存在で、いつもあらゆる天使の目から逃げ惑い、狼狽え、悲観し、悲嘆し、
そして影に隠れてまるで逃亡者のように過ごす。
それが僕っていう存在なんだ。僕は半天使だから。
僕はこの目の前の男の人とも、ほかの天使たちとも違うから。




ヴァイオレットの心に影が落ち、彼は男から目を逸らす。
男はそんなヴァイオレットの目の曇りを見逃さなかった。
「綺麗な子よ」
男がそっと僕の方を見て呟いたみたいだったが、何を呟いたのか、最初は全くわからなかった。
何故って、そんな言葉を一度たりとも誰かから言われたことなんて無かったからだ。
もう一度男が呟く。
「どうしてそんなに恥じ入る必要があるのだろう。」
男は切なそうな、少し悲しそうな表情を浮かべる。
芳しい花の香に虫たちが惹きつけられるかのように、そのふんわりとした芳しい声色によって、
ヴァイオレットは気づけば男のほうを再び見ていた。
しかし男を見た途端、また恥ずかしさが込み上げてくる。
徐々に取り乱される感情が増幅される。

「ぼ・・・、ぼくはっ、僕は汚れた存在ですから。」
何故だろう。何故かはわからないが、ぼくはしきりに何かそんなことを言い放ち、男から逃げようとした、
そして出口らしきところを探し、外に出た・・・つもりなのだったが・・。

そこは見知らぬところだった。まさに異世界。いやここは魔界のはずなのだが・・。
僕が知っている魔界とは随分景色が違う。
まるでこう、水彩絵の具を子供が天の川銀河の瞬く夜空に散りばめて、
夜空が絵の具のグラデーションによって色とりどりに遊んでいるかのような、ちょっと不思議で面白い景色が広がっていたのだ。
呆然と辺りの景色を眺めて立ちすくんでいると、そっと男は以前よりもすこし距離を置いて僕の横にいた。
僕がこの独特の景色に夢中になっていて気づかなかっただけなのかもしれないが、
男が突然僕の左側に出現したような感じがして非常に驚いた。

一定以上の距離を詰めると恥じらうヴァイオレットの態度を見たからか、男は妙な間隔をとってそこに立っていた。
ヴァイオレットは相変わらずどきどきしながらちらちらと男のほうを伺ってみたが、この距離感がやや安堵感を与えた。
男がヴァイオレットの方を見ずに、天を見上げていたから余計にホッとしたのかもしれない。
魔界には似つかわしくないその穏やかな暗い場所で、僕たちはその独特の空気感に感じ入っていた。
が、ふと、あることに気づく。

「そういえば・・」
ヴァイオレットは躊躇いながらそっと男のほうを見た、男の目は直接見ずに、ちょっと視線を逸らした感じにして。
男も同じように、ヴァイオレットの方を直接見ずに、少し斜め下を見た。

「・・そういえば、僕を治してくれた悪魔って・・誰だったんですか・・?」
・・そうなのだ。ヴァイオレットが目覚めた時には、この坊主頭の人間しかいなかったのだ。
治癒魔法を使える悪魔なんて、聞いたことがない、もしそんな悪魔がいるなら見てみたい。
ヴァイオレットはそんな悪魔の存在に深い疑念を抱いていた。
それを聞いて、男はにっこりと笑った。

「とても偉大な方ですよ。」
ほっこりとした満面の笑顔であっさりとそう答えられた。
なんか納得がいかない。それなのにこの男の柔らかさの力のせいか、どうも厳しく追及する気になれない。
結局とおずおずと口ごもりながらちっちゃな声で聞いてみることになった。

「い・・偉大な方・・・・って・・?」
男は小さく笑い、そして自分の手を天に翳して言った。

「私に力を貸して下さった方です。彼が私の願いの手助けをしてくれたお陰で、私はここに在ることができます。」
男は目を輝かせながら続けた。
「こんな面白いことはないでしょう。ここに来て、私の願いが叶うなど。なんと面白く、喜ばしいことよ!」
男はボロ布を揺らし、楽しそうにその場で小さく回って見せた。

「私には手があり、耳があり、目があり、皮膚があり、無数の細胞がある。こんなに喜ばしくて面白いことがどこにあるだろう。」
男はやけに喜んでいるようだったが、ヴァイオレットは男の気持ちが全くつかめなかった。

「人間が・・・そんなにいいものなんですか・・?」
男とは真逆の低いテンションでヴァイオレットはそう質問してみる。
「貴方も同じでしょう。存在は違えども、笑う心、悲しみの心、憎しみ、恐怖、安堵、嘆き、そして喜びの心を持つ。」
「はぁ・・。」
いまいち男の言おうとしていることがわからない。そして男が笑う意味も全く理解できない。

「貴方がたはよく迷子になり、私は孤独だと言うね。君の悲鳴もとても深い。
しかしあらゆる者は貴方に永久の時を刻む間寄り添っており、そしてこれからも変わらない。
今は私が君に寄り添うことが出来る。貴方が私を求めれば、私はいつだって貴方の側にいよう。」
安堵感を齎すやわらかい声色で、男はすっと立ち、その溢れそうな感情を目に抱きながらヴァイオレットを真っ直ぐ見つめた。

恋人たちが発するような甘いその言葉。
そんな言葉を僕に向けられたこと自体非常に疑わしいことで、僕の耳が都合のいい聞き間違いをしたんじゃないかと思わざるをえない。
それにまさか、男の人、人間の男の人にそんなことを言われるなんて、なんだか変な感じ。
そういう言葉は恋人同士が囁くセリフとばかり思っていたから、
僕は本当に、この人は一体何を言っているのだろうと、只管そういう想いが頭をぐるぐると何十回転もしていた。

「この世界の誰もが、全ての繋がりから切り離されて孤独の時を味わう時代がある。
自分のことを不幸だと思うのだろうか。自分に人徳が無いのだと。自分は嫌われものなのだと勘違いをするのだろうか。
時に周りのすべてを恨み、去っていった人を憎むかもしれないが、それはよく出来たつくり話だと思わないかい?」
「・・え?」
やっぱりこの人、何言ってるのかさっぱりわかんない・・。

「まるで図っていたかのように、同時期に大勢の人間が自分のもとを去るだなんて、偶然にしては面白い話だ。
出来事というのはとても面白い。去らねばならぬ時期に、すっと人が去り、また巡りあう時には図ったように相応しい人間と出会う。
すべてはよく出来たつくり話のようで、よくよく観察してみると、何故その時期に人が離れ、そして再び人と巡り会ったのか。
何故不幸が起き、幸福が起きたのか。すべてが絶妙なトリックのようだね。」
「・・・え・・・・。」
うー・・・んと、つまり、なんかこう、人生はこう、仕組まれてる・・、宿命的なものだって言いたいのかな・・?
イマイチ理解できていないといった風なヴァイオレットを見、男は更に付け加えた。

「貴方を見ていると、まるで自分を暗い暗い、深い闇に閉じ込めて動けなくしてしまっているようだ。
何か悲しい出来事が起きたとして、それは本当にすべて貴方のせいなのですか。」
・・・なるほど、つまり出来事にはすべて原因があって、僕のせいじゃないかもしれないよって、励ましてくれてるのかな??

「で・・、でも、僕の・・、僕のせい以外に考えられないです。」
暗くて深い闇の中、悲しい出来事・・、男が言おうとしているものは、きっと、
僕が天界から追放されたんじゃないかって思ってる恐怖。

それで真実を知ることが怖い僕の心のことを言っているような気がする。
でもそれは、僕が半天使だから。それ自体が異端で、問題視すべき罪深い存在だから。

「貴方は深い深い絡み合った因果を見たことがあるでしょうか、それはとても捉えにくいもの、人の私も、そして貴方も。
一見自分が原因に思えるものがあったとしても、もっとその根は別のところにあるのかもしれません。」
・・・ど、どういうこと??僕以外に原因があるって・・??一体どんな???
「貴方は、ご自分のその存在を変えられるのですか?貴方は全ての問題を愛おしいご自分の存在のせいになさるのですか?」
はっと気づいた時には、男はいつの間にかヴァイオレットのすぐ近くにいた。
ゆっくりと優しい男の挙動に、ヴァイオレットはすっかりと警戒を緩めていた。
ヴァイオレットがいつの間にか近くにいた男の存在に気づき、急にたじろぎ始めると、男はその優しい眼差しをすっと逸らして頭を垂れた。
予想外の行動にまたもや動揺するヴァイオレット。
「どうか私に怯えないで。私は貴方という輝かしい存在に、最大の配慮と敬意を尽くしたいと思っています。」
目の前で男に深々と頭を下げられている状況に、ヴァイオレットはすぐには返答の言葉が見つけられない。

「えっと、・・・じゃあ、その・・。僕、ちょっと、目を直接見られるのが・・その。」
頭を垂れたままの男からは表情が読み取れなかったが、男がいつものような穏やかな表情で微笑んでいるのだと雰囲気で感じ取れる。

「ええ・・、貴方の満月のように綺麗な金の瞳を拝見出来ないのはとても残念ですが、私は貴方の愛おしい足元を眺めるだけでも、十分に心地良い。」
・・なんだろう、この男。
こういうタイプの人間は見たことがないし、天使でもこんなことを言う天使はいただろうか。
とにかく、予想外の行動をとられるので、いちいちしどろもどろしてしまう。
でも物腰がとてもやわらかなその男は、とても上品な立ち振舞で、見ていてとても穏やかな気分になるのだった。


・・最近の女の人には無い上品さだよなぁ〜。あっ、でもローザ先輩も品があって可愛らしいんですけど、
でもなんかローザ先輩は活動的なんですよね・・、
僕よりずっと積極的で、たまにぼく、うじうじしてるとローザ先輩におしりひっぱ叩かれるっていうか、
行ってこい!って強烈に後押しされるから、つい勢いで色んな任務引き受けちゃったり、たまにトラブルも起こしちゃったり・・。


ヴァイオレットはそんなことを考えながら、目の前の坊主頭のてっぺんを眺めていると、
その坊主頭の男はゆっくりと上半身を起こし、にっこりと再び微笑んだが、
視線はちゃんと、僕と目が合わないようにしてくれているのがわかった。

・・なんだか悪いことを言っちゃった気がする。
ヴァイオレットはちょっと気の毒になりながら、こんなことを聞いてみた。
「そういえば、お坊さん人間なんですよね?・・お名前って聞いてもいいですか?」
男は笑いながらちょっと困った顔をした。
「名前・・ですか、私はどうとでも、呼びやすい名をつけて呼んでくだされば構いません。」
「・・名無しさん・・?」
咄嗟にそうヴァイオレットに返されて苦笑する男。
「フフッ、そうですね、そう呼ばれていたこともあります。」
なんだろうこの人、親とかはいないのかな?
ヴァイオレットはそう思いつつも、プライベートなことを聞くのは気が引けて、そこには触れないでおいた。
「名無しさん・・・・・。・・・は、ちょっと可哀想だし・・。うーん・・。」
ぶつぶつと小声で呟いているヴァイオレット。
真剣に自分の名前を考えてくれているヴァイオレットを見て男は嬉しそうにしていた。

「まぁなんと、優しい存在なのでしょうね、貴方という方は。」
男はほくそ笑みながら言う。
さっきまで唸りながら真剣に考えていたため、不意にそう言われて何のことかわからずきょとんとして顔を見上げる。
不意に男の方を向いたため、男の顔をまじまじと見てしまった。
男は身に纏った泥だらけのボロ布に似合わず、顔立ちが案外整っていて、年齢も想像より若そうだった。
お坊さんっていうと、もうちょっと年齢がいってるのかと思っていたが。
しかしこのお坊さん、いやお坊さんなのかも不明なのだ、ついつい坊主頭が珍しくて、お坊さんって言ってしまっているだけで。

「このつるっぱげが、そんなに面白いですか?」
男は子供のように目を丸めて生き生きとした表情でその坊主頭をきゅっきゅとこすってみせる。
茶目っ気があって、ひょうきんさも持った、面白いお坊さんみたいだ。
「僕もそんな頭になったら、えらくなれますか!!?」
男のつるっぱげ頭に心を動かされて、思わずそんなことを聞いてしまうヴァイオレット。
「私、えらそうに見えるかい?」
「い・・いえ・・・」
思わず否定してしまったが、賛同した方が良かったかな!!?
ヴァイオレットは自分の意見をあまり持たない。とにかくその存在故に、相手に合わせてしまうことを覚えてしまっているのだ。
男はニッカリと笑い、こう言う。
「貴方はそのままで十分偉い。」
男は笑いながらしゃがんで僕にそう言った。

何故だろう、この男といると、僕は暗い気持ちになって塞ぎこむのを阻止される。
ころころっとした、朗らかで明るいこの男の独特の笑いは周りの空気を陽気にさせ、
まるで全世界のあらゆる存在が心底笑って楽しんで存在しているかのような印象を受ける。

・・・なんだか、ずっとこの場所に留まっていたい・・。

あまりに穏やかなその雰囲気は、天界ですらも感じたことがない。
ここが僕の、安らぎの場所―――。

ヴァイオレットは自分の中のあらゆる負の衝動が沈められ、穏やかになっていくのを感じながら
ゆったりとその空気に身を委ねていた。



ケタケタケタケタケタケタ・・・

ふいに、魔界の外で小さな小さな音が聞こえてきた。
小さな存在の悪魔たちが音を鳴らしている。僕はこの小さな悪魔たちの存在をよく知らないが、
魔界にいる小人とか、妖精とか、きっとそういう存在なのだと思う。

そしてその独特の音は、この和やかな空気をぶち破って侵入し、僕にある重大なことを思い出させた。

・・・・ジルメリア・・・、
・・そうだ、ジルメリアを探しにいかなければ・・。

すっかりこの居心地の良い空間に居座ってしまっていた。
目的も忘れ、何もかも忘れ去って、こんな心地よい笑顔と楽しさに満ちたところにいられたら、どれだけしあわせなのだろうか。
きっとこういうところが、天国と人は言うんだろう。

・・天国、皮肉にも魔界であるここでそんな言葉が出るなんて・・。
僕は天界にいつもいたけど、決して幸せじゃなかった。
僕にとってあそこは天国じゃ無かったってことなのかな。
じゃあ僕の天国は一体何処に・・・?


・・天国か。僕の天国。そんなものを探すなんて無謀なことかもしれない。
だって僕は生まれつきどこにも居場所がない存在のはずだし・・。
それに今、僕は天界に戻れない。
でも、なぜだろう、僕は今一番天国に近いところにいる気がするんだ。
常に暖かくて穏やかな理想郷の楽園、そんなものをうっすらと感じられる気がする。
誰かの笑顔、歓喜の心。

ああなんだか、僕の居場所が、僕の安らぎの場所が無性に欲しくなってきた。
あらゆる命を汚し究極のどん底まで貶めるといわれた最大の負の魔窟である魔界。
そんな魔界にこんなにも穏やかな場所があるのならば、未だ見ぬ数多くの世界にどこか僕の天国が見つかるかもしれない。

この男の横にいて感じられるような、こんな穏やかで楽しそうな場所。
こんなものが世界に存在するだなんて知らなかった。
僕にもそんな場所が存在するだなんて知らなかった。

・・・探したい。僕だけの、天国を。
天界でも魔界でもない、僕だけの場所を。

――――――探そう。


僕はこれから、自分の天国を、探しに行こう。
ジルメリアを探しながら、僕の理想郷を、どこかにあるかもしれない僕の安らぎの場所を。


未だ嘗て踏み入れたことの無い地に、僕の心の家を建てよう。
僕は生まれつき永遠の放浪者かもしれないが、それでも僕は、自分の大地を探しに行こう。

隠れ家を探し、そこに根を生やしてみたい、そこを僕の理想郷に。

そこを僕にとっての天国にしよう。

僕にとっての天国は、これから僕が、僕自身の手で作ろう。



男はそんなヴァイオレットの決意をそっと横で、微笑を浮かべながら
いつまでもいつまでも見つめていた。





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