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緩歩のあしあと


文字数:35986文字(35986)
行数:1645行・段落:471
原稿用紙:90枚分(400文字詰)
1章:VV   ★2章:帆翔   ★3章:産声   ★4章:迫間   ★5章:緩歩   ★6章:墜地   ★7章:うばう   ★8章:狂想   ★9章:二つは一つ   ☆→writing

緩歩のあしあと:第五部

第四部:天と地の迫間へ←          →第六部:墜地の果てへ

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緩歩のあしあと 《もくじ》
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わたしは見たの。
目の前のあの子が、一度死んで、生き返るところ。
同じ病室の向かい側の彼。
―――遷延性意識障害?ことばはよくわからないけど、
ずっと彼には意識が無かった。

それでついこの間、彼の病状は急変した。
彼は死んだって。お医者さんも、両親も、みんな彼の周りに集まって、
ざわざわして、
お葬式の話とか、手続きの話だとか、そんなことを話してた。

・・・でもその晩。

わたしは見たの。彼が命を吹き返すのを。
彼のベッドごと何かよくわからないもやもやした光に包まれて、
気づいたら光の中に女の人がいた。

そこだけ昼間のように明るいの。
でも窓辺に置いてある花瓶の影は、どこにもできてなかった。
だからきっと、あれは光に見えるけど、実際の光じゃない何か。

長い長い時間その光景を見てたと思ったら、
光が無くなって真っ暗になってたことに気づいて、
今までの光景は夢だったのかなって思っちゃった。

怖かったけど、スリッパを履いて、そのベッドに近づいてみたの。
そしたら・・。
彼がぼうっと瞼を開いてて、私と目が合った。

その日はそれっきり。
だってどうしていいかわからなかったんだもん。
夜中だったし。
自分のベッドにもどって、ばっと白いお布団をかぶってそのまま寝ちゃったの。

でも次の日ね、その子のお母さんとかが来て、
みんな驚いて、大騒ぎしてた。泣いてる人もいたよ。
しばらくその子は喋れなくて、ただ周りの人を見ているだけだった。

喋れるようになったのはあれから1週間後ぐらいかな?
わたしとっても驚いたのよ!
だって彼。・・彼。・・・・性格が変わっていたんですもの!

本当に、どうしたのかと思っちゃった。
前はむっつりして何も喋ってくれなかったし、
紙飛行機を折って飛ばしたら、迷惑そうに睨みつけられたのよ。

なのに、今はどう?彼ってば別人みたい!
からからと楽しそうに笑いながらわたしに挨拶してきたのよ!
本当、ウソみたいな話!

まるで一度死んで違う誰かと入れ替わっちゃったみたい!
そうでもなければ何?悪いものを天国に置いてきちゃったから、
あんなに明るくなったのかなぁ?

ほんと〜うに、へんなの!こんなことってある?

わたしってばその光景があまりに可笑しく思えて、毎日彼を眺めちゃうの。
そしたら「どうしたの?」って、軽やかで楽しそうな声で話しかけてくるの。

本当に、ふしぎ!こんなことってあるのね?

彼ってとってもお兄ちゃんで、わたしとは歳が離れてるけど、
ちょっぴり彼のこと、好きになっちゃいそうかも!

だって何かわるいものがとれたみたいに、軽やかで明るくて、いつも楽しそうなんだもの!
わたし、元気な日は病院内を探検するのが好きだけど、
病院中探しまわっても、あんなに素敵にからからと笑う人はいないわ。

いつか彼に肩ぐるましてもらうんだから。彼がそのくらい元気になったらって話!



―――――女の子の心の声が空間を伝わり、天使に伝わり、その情報は、やがて天界へ達する。
女の子が見た奇跡は、やがて彼女にも伝わった。


「・・・なんですって!?生き返った?あの人間が!?」
少女は息も吸わずにわっと大声で喋ったあと、近くにあった空中に浮かぶチェアにどさっともたれかかる。
「あ〜〜ァ〜〜ア〜〜、まったく意味がわかんないわ。なんだっていうの?」
こめかみをつつん、と左手でつっついて、目を細めて項垂れる。
「Nさん、だからこれは、不確かな情報よ。ある人間の女の子の声を守護天使が報告してくれただけなのよ。」
「あなた特殊部隊の人間じゃないでしょ、ちゃんとノルディって呼んで頂戴ね。」
「あ、うん、そうするわ。」
「なんかほ〜んと、スッとしない事件ばっかり。何か他に情報ないかしら?」
「そうねぇ・・、ワタシの手元にあるのはそのくらいだけど、ただ・・」
「・・ただ?」
「生き返ったっていう彼、今までと性格ががらっと変わってしまったらしいのよ。」
「・・・・・なにそれ・・。管轄の守護天使が監視してたでしょ、そっちの報告はどうなってるの?」
「・・・・それが・・。」
「・・・んん?」
「よくわからないらしいわ。」
「・・・・はぁ・・?」
ノルディは再びごろんともたれかかり、両手で顔を覆う。
「もぉ〜〜〜、何なのよ!」
そう言って唸り声にも似た音を漏らす。
――――どうやら全く調査は進んでいないらしかった。
いつもこうというわけではない。
むしろノルディ含め特殊部隊の天使たちは中々優秀で、
日常のあらゆる事件は速やかに解決されていた。
なのにこの件に限っては情報を探ろうとも、探ろうとも、
行きつけない穴の中に嵌り込んでいるようで、
一向に決定的なものに辿りつけないでいる気がしていた。


チェアに横たわって静止していたかと思うと、急にくるっと起き上がって、動き出す。
どうやら彼女は回復も思考の切り替えもメリハリがあって素早いらしい。
ノルディはしばらく天界に留まったまま、色々な天使に話を聞いていた。
彼女が調査中の人間、「柴谷朋弥」。
彼はノルディが突き止めた、唯一、極楽地獄を知っている人間、なのだそうだ。
そしてノルディが病室に行った時、彼の魂は既にそこには無かった。
すぐさま天界に赴いたが天界にも魂は行き着いてはいなかった。
半悪魔のヴァイオレットを遣わして、魔界にも行かせてみたが、やはりそこにも柴谷朋弥はいなかった。
「柴谷朋弥は、極楽地獄を見た人間は世界の何処からも消えた。」
そう彼女は感じた。
何か大きなものの存在を感じた。自分たち天使ですら触れられないもの、犯せないもの。そんな大きな存在。
それが何かはわからなかったが、その存在があまりに大きすぎて、
私たち天使がいくら調査しても、その真相に辿りつけないのだということを、
ノルディは天使なりの勘で、なんとなくわかっていた。
「今の天界の混乱に乗じて、この任務無くならないかしら・・」
ぼそっとそんなことを考えたりもした。
今は天界が混乱に見舞われている時期。
レナシーと名乗る少女が神に仇なそうとし、複数の天使失踪という不可解な事件を招いた。
失踪した天使の一人、ルーミネイトの代役として、上級天使フェルメイが臨時に役目を果たす中、
果たしてこの極楽地獄調査の任務はどれほどの緊急性と必要性があるというのだろう。

「・・・・ん。」
急に立ち止まるノルディ。
「そういえば・・・人間界の私のアジトに・・あの紫クンを放置したままだっけ?」
人間界に置いてきたままのヴァイオレットを思い出し、
急に足をそわそわと上下に小刻みに動かし始める。
「あ〜〜〜、もうしょうがない、ついでに見てくるかな、ついでついで、柴谷朋弥の様子を直接探りに行くついで。」
きゅっと方向転換したかと思うとそのまま勢い良く動き出すノルディ。
―――――向かう先は、・・もちろん、人間界。



「そうだ、ごんべえ!ごんべえなんてどうでしょ!」
「・・・ごんべえ?」
「お坊さん名前が無いんですよねー、じゃあ名無しの・・権兵衛さん!」
坊主頭の男と半天使半悪魔のヴァイオレットは、魔界の辺境を進んでいた。
「とても、いいお名前ですね。どうもありがとう。」
にっこり笑ってそう言ってくれた男を見てヴァイオレットもほっこりと心が温かくなる。
「にしても・・ジルメリアの情報も、あの嫌味〜〜な悪魔のこども、
パトリでしたっけ、あの悪魔の所在もまったくわからないんですよねぇ・・。」
ヴァイオレットはジルメリアの情報を探して魔界をうろついていた。
瘴気満ちる魔界で唯一身を守ってくれていた大天使の紋章が消えたのに、何故かヴァイオレットは無事に、この魔界で存在出来ている。
「ねえごんべえさん。」
「・・うん?」
「さっきから連れてる、その・・ヤギ?みたいな生き物は何なんですか・・?」
男はいつの間にかお供にヤギを連れていた。
僕がジルメリアの情報を色々と聞きに行っていた隙に、だ。
(・・あれ・・?・・そういえばこのヤギなんでこんなにボロボロなんだろう・・)
・・そういえばこの男の身なりも、そしてこのヤギも、ボロボロだった。
ヤギは傷だらけで、大きい傷跡から血が出て固まった跡や、皮を剥ぎ取られようとした惨たらしい跡が無数にあり、
見ているだけで痛ましく、そして見窄らしいことこの上なかった。
「とてもうつくしいヤギでしょう。」
「・・・・え?」
男は拝むようにしてそう呟いた。
一瞬何を言い出すのかと思ったが、そう言われて見ると、確かに姿は見るも無残なボロボロの姿だが、
一歩後ろに引いて目を細めて見ると、なるほど確かに、風格があって、格調高く清麗さを纏っているような。
でもそれは、ぼんやり見たらって話で、やっぱり普通に眺めていると、ボロボロのヤギにしか見えてこない。
「貴方のような瑰麗な生命をお持ちの方とここでもお会いできて光栄です。」
(・・・・)
・・・んん?なんだかごんべえさん、ヤギと会話してるような・・気がしなくもないけど、
でも何を言ってるのかさっぱりわからない。
「私がここにいるとご存知だったのですか。」
(・・・・・)
やっぱり何か会話しているようだが、全く聞き取れない。
しばらく坊主頭のごんべえと名付けた男とヤギは意思疎通をしていたようだが、
それをぼーっと眺めていて、ヴァイオレットは急に、自分が蚊帳の外であることが嫌になってきた。
ヴァイオレットは、そういった立場の自分に気づくと、ひどく卑屈な気持ちになってくるのである。
天界などでそういう立場になった時、心を閉ざし、口もきかなくなる。その場から逃げ出すこともあった。
でも、今回はそうはならなかった。
僕が卑屈な気持ちを思い出しそうになった時、ごんべえがすかさず、ヴァイオレットの腰のあたりをつっついたのである。
「はわっっ!?」
ビックリして変な声をあげてしまったヴァイオレット、そのことに恥ずかしくなり、しきりに辺りを見回す素振りをする。
男は声を出して笑っていた。
特に取り繕うこともなく、なぜ急につついたかなど、そういったことに触れることもなく、
ただ子供がちょっかいを出すようにつっついて、そして笑っている。
あまりに拘泥無いカラカラとした笑い声なので、僕も何か、
ヘンに孤独ぶったり、恥ずかしがったりするのが、なんだかバカらしくなってきて、
それでなんか、ちょっとだけ笑ってしまった。

・・楽しいなぁ。・・・楽しい空気。こんな明るくて軽い世界があるんだなぁ。
何も悪いことを考えなくて済みそうな、こんな軽やかな世界。
・・・・いいなぁ、心地良い。僕、ずっとごんべえさんと一緒にいたら、もっと陽気な天使になれるかなぁ・・?

坊主がヤギと変な踊りを舞い、スキップしたりしている奇妙な光景。
そんなものを目の前にして、ヴァイオレットはなんとなくそう思った。

あとで聞いた話だが、あのヤギは、はるか昔、とある儀式の生贄になり、殺されてしまったヤギだという。
神の怒りを沈めるだとか、飢饉を救うためだとかで、神が所望した白いヤギが必要だったという。
ごんべえは悲しそうにこう言っていた。
「皆を愛し生かし続けることこそが最大の喜びである神という存在が、
命が奪われることを望むなど、そんなことがあると思いますか。」

―――――僕は正直神という存在がよくわからない、見たこともないし会ったことも無いから。
僕がのた打ち回っていても助けてくれたこともないし、助けてって、何度も叫んでも、助けてもらった覚えなんか一度もないし、
神様ってのがいたとして、そいつが悪いやつなのか、善いやつなのかなんてわかるわけない。
ただ思うことは、神様ってのがいるなら、ごんべえの言うような
僕達を愛してくれて、命が奪われることをとても悲しむ、そんな存在ならいいなって、そう思った。

―――でも、ぼくは、本当に神様とかがいたら、僕を、見放さずに、・・助けて欲しかった。


悲しみの表情を浮かべる坊主頭と紫頭の人間と天使が2人。それぞれの想いが空に吸い込まれて消えていった。





「ダーーーンテっ!☆」
ビクッ!・・と肩を震わせ、瞬時に振り返る金髪の天使。
「な、なんだ・・・、・・・ローザか・・。」
声のトーンが徐々に落ち着いてくる。
「・・誰かと勘違い?ヴァイオレットとか?」
「・・まさか。」
すっかりいつものクールな調子に戻り、そっけない態度で返事するダンテ。
「それよりお前、人を驚かすのが趣味か?ローザ。」
波打った柔らかな髪を纏ったローザは、ニッコリと微笑んで否定する。
「ダンテが勝手に驚いただけじゃない?」
「驚いたわけじゃない。」
見え透いたウソ、さっきかなり驚いていたのに。
「お前何の用だ、殺気がないところを見ると俺を捕まえに来たんでもないだろ。」
「・・・なんの話?・・まさかダンテ、何かやっちゃった?」
「いいや。悪いことは何もやっていない。」
「・・あらそう、ダンテにとっての悪いことはやってないってわけね。」
さすがローザだ、ダンテの言うことの意味がよくわかっている。
「ねえ、ヴァイオレットのこと何か知らない?」
「・・はぁ?あいつなら天界から追放中だろうが。」
「どうしてヴァイオレットが突然人間界へ追放になったのよ?」
ローザのいつになく真剣な面持ちに、ダンテは気まずそうに目を逸らして口篭る。
「さぁな。だがいつものことだ、心配するほどのことでもないだろ。」
ダンテはルーミネイトを絶対的に信頼しているらしかった。
だからなのか、ルーミネイトが下したヴァイオレットの天界追放も、
ほかならぬあのルーミネイトの判断なのだから、きっと大丈夫だろう、そう思っているように見えた。

・・・しかしローザはダンテとは様子が違っていた。
彼女の頭の中に過去の出来事が頭を過る。
ローザは過去に天界がヴァイオレットに対してした酷い仕打ちの数々を知っていたのだ。
「どうして追放されたの?」
ローザの切迫した言葉に、ダンテの反応は鈍い。
「・・・さぁな。ルーミネイト様に直接伺えばいいだろう。・・もっとも・・」
「そうだわ、ダンテはルーミネイト様を探してるのよね?」
いきなりのローザの切り返しに少し面食らった様子のダンテ。
「あ・・・ああ、だが手がかりはまだ・・」
「はい!」
「ん?」
いきなり本を突きつけられた。
それも・・、銀の背表紙にオリーブ色の文様が入った本。
「あッ・・・・・!?」
驚きのあまりダンテが咄嗟に奇妙な甲高い声をあげる。
「な、なに??」
ローザもダンテの奇妙な声に驚く。
「こ、これ・・・どこで手に入れた!?」
ダンテに似合わず声を震わせながら微かな声量で問うた。
「・・え?イコンにもらったのよ。」
「イコン!!?」
ダンテのあまりの驚きように、ローザはいったん喋るのをやめて、
じっとダンテの顔を覗き込んでみる。
ダンテはそんなローザの動作に気づくことなく、手元にある本を見つめている。

これは・・、この銀の背表紙とオリーブ色の本、この色の組み合わせは・・、
間違いなく、閲覧禁止第三区の本。
つまり、一般には知られてはならない情報が書かれてあるということ・・
俺達一般の天使は、決して、閲覧することなど許されない・・・。

ダンテはひと通り本をガン見した後、急に周りを見回した。
そして今度はさっと、ローザの至近距離に近づく。
「な・・なんなのダンテ?」
困惑するローザに、顔を近づけて低い声でつぶやく。
「なぁ・・ローザ。」
ダンテの表情は真剣・・というより睨んでいるようにも見え、
がっと目を見開いて、ローザの方をやや俯き加減に見ていた。
ダンテのその怪しい一連の行動に、ローザは眉を顰める。
そんなローザにお構いなく、ダンテはある問いをした。
「俺の。・・・味方でいられるか?」
いきなりの問いに、ローザは黙ったまましばらくダンテを見つめていた。
「これ以降、何があっても、俺の味方でいられるか?ローザ。」
「・・・なんのはなし?」
ダンテが何か重要なことを質問していることはわかる、
だが何を思ってそんなことを訊くのか、ローザにはつかめない。
困惑したままはっきりとした返事が得られないダンテは業を煮やし、
ぎらっと睨んで詰め寄ってきた。
「どうなんだ!俺の味方になるのかならないのか!」
「・・なによ、そんな意味深そうな問いに、理由も聞かず答えられるわけないじゃない。」
ローザはついにそう言い返した。
もっともな話だ、ローザはダンテの詰め寄ってきた二択に答えなかった。
それを受け、ダンテは一旦問い詰めるのを諦め、ローザの腕をがっしりと掴む。
「こ、今度はなに?」
「お前は癒しの魔法は得意だが、攻撃魔法では俺に敵わない。知ってるだろ。」
「・・それが何なのよ。」
「理由を説明してやるから一旦俺の家へ来い。ここだと誰が聞いているかわからないからな。」
「もう、なによ、女の子を誘いたいなら、もっと気の利いた口説き方はないの?」

ちょっと茶化してそういったローザに、ギリッと尖い目つきで睨み返すダンテ。
ローザは諦めた様子で、そのまま黙ってダンテに付いて行くことにした。
「・・ああ、俺の家に来るのなら、俺は誕生泉の方を通るから、お前はぐるっと向こう側を通って来てくれ。念の為だ。」
そういってローザの腕を鷲づかみしていた手をぱっと離す。
そのままそそくさと何事も無かったかのように、ダンテは自分の家の方向へ飛び去ってしまった。
呆気にとられるローザはただただ立ち竦んでいた。
「な、なんなの?無理やり連れて行くんじゃないの?私だけ遠回りしろって、ダンテってば何様なのよー!」
今更抗議してみるが、ダンテの姿はもう見えない。
「攻撃魔法では俺に敵わない・・ですって〜?ダンテってば私を脅す気?」
・・確かにローザとダンテでは専門分野みたいなものが違う。
ダンテは危険な場所で危険な任務を幾つも熟すために、攻撃魔法や、その他の戦闘系の技も優れているだろう。
対してローザは人間や人間界の監督や観察を取り仕切る部門に所属するため、そういった戦闘分野の技は殆ど必要が無いのだ。
天使が天使に脅しなどご法度のはずだが・・・きっとダンテはこれが脅しなどとは思ってもいないのだろう。
迷った末、ローザは色々と寄り道をしつつ、ダンテの家へ向かうことにした。

家といっても、別に人間界のように、木材やコンクリートで出来た建物が建っているわけではない。
天界でいう家をもっと的確に言い表すならば・・魂が還る空間。
ダンテという存在と、天界で最も調和し融合出来る場所、
それこそがダンテの居場所、居住空間であり、即ちダンテの家なのだ。



「やけに遅かったな。天界の最果てまで行ってたんじゃないのか。」
ダンテの家に行くと、来て早々そんな嫌味を言われた。
「ほら、来てあげたんだから、理由を話してよ?」
「なんだ、味方になる気になったのか?」
「それは理由を聞いてから決めるわ。」
「理由を聞けば後戻りは許さない。先に味方になるかどうか決めろ。」
「ええ?」
なにそれ横暴。でもそんなに重要なことなのかしら?
・・ダンテって味方が少なそうだものね。
だからそこまで親しくない私でも味方に勧誘したがるのかしら・・?

「私は一生懸命な人と、誰かを悲しませない人の味方なの。ダンテはその両方に当てはまる?」
「・・当然だ。」
「ダンテがこれからも、誰かを悲しませないって約束してくれるなら、味方になってあげてもいいわ。
もちろん、ヴァイオレットもよ。」
「・・・あいつもか・・」
ちょっと苦そうな顔をしつつも、ダンテは頷いた。
「わかった、それさえ守れば未来永劫味方でいろよ。」
(・・・なんだか強引な言い方よね、いちいち。・・まあいっか。)
「ちゃんと守ってね。」
「ああ、じゃあ今から説明することは他に漏らすなよ。」
「ええ、良いわよ。」
ようやくローザとダンテの言い合いにまとまりが見えた。
ダンテはローザの表情を一言、一言、言葉を発しながらチェックしていく。
彼女が少しでも変な態度や表情を見せないかどうか、ローザのことを警戒して観察しているのだ。
ダンテはローザの一挙手一投足を観察しながら、彼女の腹の底を探っていった。

「・・まあそういう経緯だ。」
「永凍宮の保管所に足を踏み入れたですってぇー!?よく無事・・じゃないわ、私にそんなことに協力しろって?」
「まあ、落ち着け、それでだ、この本、あろうことか巧妙な術がかけられていてな、ほとんど俺には読めない。」
ダンテの話の内容はこうだ。
ルーミネイトの手がかりを得る為に永凍宮の保管所に侵入を試みたが失敗し、現在お尋ね者になっているかもしれないということ。
ダンテが自分の叔父トッヘルの術にかかり、現在再び永凍宮には近づけないこと、力も行使出来ないこと。
そして本には妙な術がかけられており、ローザの協力と、ローザの知り合いの協力が必要だということ。
ダンテ一人の力では本がほとんど読めない、イコンがわざとそうしたのかもしれない。

「ダンテは時々、暴走するからね、一人じゃ危ないでしょ、誰かが側にいないとね。」

そう言ってニッコリ笑ってそうなイコンが容易に想像出来る。
ダンテの切羽詰まった真剣さとは裏腹に、ローザは唖然とした後、少し呆れた表情で沈黙していた。
いかにも、「付き合いきれない」と言わんばかりの心中が、表情に表れまくっている。
ダンテはいかにも協力してくれなさそうなローザの態度を察し、一旦話すのを止め、
少し考えてから再びこう続けた。
「うまくいけば、俺とヴァイオレットに関する情報も手に入る。」
「ヴァイオレットの情報・・?」
ぴくっと、ローザが反応した、案の定、ルーミネイトやダンテのことでなく、ヴァイオレットを持ち出せば・・。
「あいつに関する情報がわかれば、ヴァイオレットの処遇を今より改善出来るかもな。
或いは奴自身を救える方法かなんかが見つかるやも。」
「・・・なんか、デタラメ言ってない?」
さすがローザだ、ダンテの苦し紛れの詭弁などお見通しだった。
「・・興味ないのか?奴に関する情報に。」
・・ここで慌てて言い訳などすると、余計デタラメを言っているように見える、ここはあえて冷静に聞き返してみる。
「興味・・あるけど、でも、その情報があったとして、本当にヴァイオレットを幸せにしてくれるのかしら?」
「んん・・それは・・。」
それは正直なんとも言えない。デマカセでヴァイオレットを救えるだとか言ってみたが、
それどころか奴にトドメを刺すようなすごい情報が見つかるかもしれない。
それこそ、二度と天界に居られなくなるような・・。

「んーー、まぁいいわ、その本って普通では知ることのできない面白いことが書かれてあったりするのよね?」
「お前にとって面白いかどうかは保証しかねるがな。」
「いいわ、協力したげるっ、それ貸して。」
ローザがその本に触れようとし、ダンテは慌てて本を遠ざける。
「何する気だ。」
「本の術を解いてもらうのよ、アーシャに。」
「・・・・信用できるのか?」
「・・・なによ、私と、この術に詳しい天使がいないと何にも出来ないでしょ?ダンテは。」
目を細めて黙ってじっとこちらを睨んでいるダンテ。
しばらくローザを睨みつけていたが、結局ダンテが折れ、アーシャという天使に本にかかった術を診てもらうことになった。



「アーシャ〜、アーシャ〜〜、いる?」
半球形のたくさんの物体がふわふわと入り混じった混雑した空間。
空間が天と地に無限のように続き、どちらが上で、下で、右で左なのか、方向感覚が混乱してくる。
ローザとダンテは沈黙の中にいたが、しばらくした後、急に右上の方から球体が近寄り、
中からポクッ!とちっちゃな女の子が飛び出してきた。
「アーシャでつよ、何か御用?」
彼女はモノクルのようなものをかけ、小さくて可愛い小人のようだが知的な雰囲気を纏っている。
「こ・・これを解読して貰いたいんだが・・」
ダンテがおずおずと本の中身を見せてみる。
「・・・いいでつよ。・・でも。」
「・・・でも?」
「なんでこのご本、変なカバーがかけてあるんでつか?」
「・・そこは気にしないでくれ、カバーは外さずに、解読してほしい。
それとこの本の内容は誰にもバラさないと約束して貰いたい。」
ダンテは続けてそう言った。ローザの時とは少し違い、なんとなく紳士的な物言いだ。
「・・・ふぅ〜ん?なにかぢぢょーってやつがあるんでつね。リョウカイでつ。ローザさんの頼みでつし。」
「ホント〜?ごめんねアーシャ!とっても助かるわ〜。」
ローザは顔が広い、信頼も厚い、そして一人一人の天使に丁寧に感謝の気持を表し、施す。
そして誰に対しても親身に受け答えをし、さらなる信頼を獲得していく。
ローザみたいな天使こそ、本来の天使というべき存在かもしれない。

「じゃ、この契約書にサインを。」
先程のあたたかなムードとローザの感謝の言葉をしれっと打ち消して、ダンテは契約書を突き付けた。
「・・これは、術で口外出来ないようにしばるつもりなのでつか?」
「ちょっと、なにもそこまでしなくっても・・」
ローザがすかさず止めに入る。ダンテが示した契約書というのは、
実際に口外出来ないように、天使の術で縛るもので、温厚な天使の間ではあまり使われないシビアで冷淡な方法とされる。
「・・よほどキケンなご本のようでつね。」
「俺は心配性なんでな。念のためだ。」
「・・・・ローザさん、このご本、大丈夫なものなんでつか?」
「・・・う〜ん、私にも・・わからないわ。」
そこで、沈黙がしばらく続いた。
そしてアーシャがこう言い始めた。
せめて、本の背表紙を見せて欲しいと。
ローザのことは信用しているが、初対面のダンテのことは、まだ信用しきれないし、
ダンテの突き付けた契約はアーシャにはリスクが伴うのに、何の見返りもない・・、
これではアーシャだけに不利だと。
そこでダンテが見返りに色々な品を提示してみたが、アーシャは納得しなかった。
ダンテとアーシャはしばらくごねあっていたが、結局、ダンテはアーシャの欲しい物を持っておらず、
背表紙を見せるという形でダンテが折れた。
戦いに敗れたダンテはどんより目を曇らせながら、トッヘルに力を封じられてさえいなければなどとブツブツ繰り返していた。
すごくいたたまれない姿のダンテを、ローザはただ横で見守っていた。
アーシャの本の解読には手間と時間が必要だった。
ダンテがようやく折れて本をアーシャに渡し、アーシャがそれをじっくりと読んでみたところ、
解読には助っ人が必要だとわかったのだが、ダンテはこれ以上この本のことが他の天使に知られるのが嫌だと必死でごねた。
その結果アーシャは門外漢であるローザとダンテの頼りない助手付きのもと、3人で解読に当たることとなった。
その本は、一般の天使が解読出来ないように、何重にも術がかけられており、
術を特定して解除する、その作業の連続だった。
最初のいくつかの術を解除出来て、順調に思われていた読解作業だったが、
途中で急に壁にぶち当たった。極めて珍しい術がそれに施されており、この術は通常の方法では解くことが出来ないらしく、
ローザが何度も解術の魔法を使ってみたが、一向に術が解ける様子がなかった。
調べていくうちに、それは特殊な天使の魔法で解けることがわかった。
その解術法は、いくつもの調子の違う周波数を一定のレベルを保ったままぶつける・・、
これは天界での歌天使が行使する魔法とよく似ている。
通常の天使が使う魔法ではこういった特異な真似は出来ないのだ。
さらに歌天使の助っ人が必要ということで、ダンテの目は再び淀んだ。
しかしこの術の解除で、かれこれ、人間界で換算すると18日ぐらい費やしていたため、
これ以上長引かせられる余裕はダンテにもローザにも無かった。

「そういえば、歌天使ってなぜか、お喋り好きな天使が多いわよね。」
そんなことをボソッとローザが言って、ダンテをさらに追い詰めた。
せっかくアーシャを口止め出来ても、歌天使から軽〜く本のことがバレてしまってはたまらない。
口止めの契約をさせる前に途中で逃げられて、ダンテの居場所を触れ回られてもたまらない。
ダンテはさらに頭を悩ませているようだった。
ダンテの知り合いに歌天使は少ないため、ローザの知り合いの中でなるべく口の堅そうな歌天使を探していたが、
ふと、アーシャがこんなことを漏らした。
「そういえば、新しく他の天界から来た子が、確か・・歌天使だったでつね。」
ダンテがすかさず、口が堅そうか尋ねたところ、その子はあまり喋らない子らしいとアーシャはいう。
そしてその歌天使は、こちらの天界に来て間もないため、まだ天界の最下層あたりにいるのではないかという話だ。
ローザとダンテはその歌天使を最下層まで探しに行くこととなった。


―――――天界。それは天使たちの住まう場所。聖なる者たちの集う場所。
あらゆる生き物を見守り、監視し、時に手助けする。そんな者達の世界。
そして天界は、ひとつだけではなかった。
この天界に住まう者達は、ほとんどそんなことを意識しない。
今までは、天界は孤立し、遮断されていた。
故に外からの、特に他の天界からの来訪者は極めて少なかった。
なのにここ最近になって、どうしてだかぽつり、ぽつりと、外からの者が来るようになった。
ノルディはその原因が、人間界の極楽地獄と関係しているのではないかとも考えていた。
かつてこのヴァイオレットたちが住まう天界を、ティラ・イストーナ・セルミューネと呼んでいた。

「・・それで、その天使の名は?」
―――――りんご。そうアーシャが答えた気がした。
りんご、・・果物の?他の天界から来た天使がそんな名前をしているなんて、そう聞き返すと、アーシャはこう言う。
あの子の名前はこちらの世界の者が名付けたらしい。
禁断の果実としてイメージされる邪悪の意味を持ったmalus。
本人が元々の名前を嫌がっていたので、同じようなイメージのこちらの名前を付け替えたのだそうだ。
ちょうど髪の色も赤々としていて、りんごのイメージがピッタリ合うらしい。

「どんな子なのかしらね〜?」
天界の最下層までの移動中ずっと黙っていたダンテに、終に痺れを切らしてローザが話しかける。
しかしやはりダンテは黙りこくったまんまだ。
ローザは何かの機会に度々会話を試みるが、ダンテは始終そんな調子だった。
やがてローザは諦めて溜息をつき、目まぐるしく変わっていく辺りの景色を眺めていた。
「―――来た、ここだ。最下層で、他の世界からの通路が出来易い場所。」
急にダンテが口を開く。その言葉で我に返ったローザは辺りを見回し、赤っぽい髪色の少女を見つける。
「あ、あれじゃない?」
最下層のそこは、視界が悪く、もやのようなものが辺りに立ち込め、どんよりとした茶色や白の歪みの中に、
一点だけ赤がぽつっと、存在していた。
派手なその髪色は視界に捉え安く、すぐにその歌天使だと判った。
「まるで、冥界ね」
ローザがそんなことを言った。それもそのはず、この場所は特に場が不安定になっており、
目の前の光景はまるで・・、幾千万もの凄烈な争いの末出来上がった赤黒い戦場の枯れ果てた大地。
そして立ち込める硝煙の中、セピア色と化したその世界に独り佇む赤毛の少女がいる。
そんな苛辣な光景にぐっと歩みが重くなるローザとダンテ。
少女はこちらに気づいたようで、少し首を傾げてから、ゆっくりとこちらに向かってお辞儀をする。
その態度を見て少し安堵し、ローザは彼女に話しかけてみた。
すると少女はこう訊き返す。
「ここの壁が薄くなっているのは、漸く私達を受け入れる準備が出来たと、そういうことですか?」
彼女の言葉の意味とはつまり、地球の天界の壁が薄くなり外から来た者が入りやすくなったことは天界の意志なのか、
とそういうことだろう。
「いや、恐らく関係ない。上の奴らの考えていることはわからんが、動向を見るに奴らの意志とは無関係に起こっていることだ。」
ダンテがそう答える。
上の奴らというのは天界上層部の天使たちのことだ。天界上層部の天使は神と相見えることが可能なのだそうで、
神の意志を知っているのも、天界を実質的に、いや世界の流れを動かしているのも彼らだと言われている。
ダンテやローザたちのような中級・下級天使は天界の中階層ほども登れない。禁止されていることもあるが、
エネルギーが強すぎて力無き者には進めないのだ。
「・・それはそうと。」
ダンテが本題を切り出した。確認したところ、やはりこの少女が例のりんごと名付けられた歌天使なようだ。
そして協力を求めると、二つ返事でアッサリ承諾が得られた。
言葉数は少ないが、彼女は礼儀正しくまた頭を下げてお辞儀した。
赤い髪をゆらゆらと棚引かせ、りんごはこう挨拶した。
「わたしは、プリトナ。リンゴ・プリトナ・カルテット。モンデイ・デュタ天界から来た歌天使です。」
りんごの橙色の目はしっかりと見開かれ、前を、自分を、未来を見据えているようだった。

3人は歌魔法行使のための聖地へと向かう。
そこは遥か昔、天使と悪魔の戦いで、天使が天界を守る時に使った最後の砦。
歌魔法を増幅出来る聖域だ。
りんごの歌魔法を増幅し安定させる手助けをするために、ダンテとローザが配置についた。

Cultu-------!
詠唱が始まる。魔法が徐々にりんごを中心に展開され始めた。
Timti---en-----a-----

Mon-naoun--Callmun-----thu---

i-----af----u-v----E----


zsho----chua----nel----En----


Hul--s----e---a----u---

Mis---so----lo----e---A---

Lun-lin--lun---lun-----la---!


調子が速い、詠唱に補助が付いて行かない。
ローザとダンテはりんごの素早い詠唱について行けなくなっていた。
しかしこの解術にはこのスピードの詠唱が必要だとりんごは理解していた。


Pim--pim-----pim---tele---aauuu-----s---!

歌魔法のあまりのエネルギーに、ダンテは押されていた。
膨大な魔法を処理しきれなくなり、朦朧としてきた。
ローザとダンテの補助が明らかに追いつかなくなってきたために、
りんごがミスを犯せば、そのままその間違いが増幅され、間違った魔法が本に届いてしまうことになる。
本の防御能力がどれほどかは未知数だが、下手をすれば、本ごと焼き消されてしまう非常に深刻な事態だ。
りんごはそのまま詠唱を続けるしか無かった。
途中で止めれば、詠唱ミスと同じような効果が出て、間違った魔法が本に行きかねないからだ。
ローザとダンテの2人はもはやクタクタになっていた。
ローザの方は辛うじて持ちこたえていたが、ダンテはもう気力が薄っすらとしか感じられない。
そんな事態になって初めて2人は事の重大さに気づいたが、もうどうしようもない。
歌詠唱の補助は歌天使を含め奇数人数が望ましいとされているため、術の安定にはローザとダンテの2人ともが必要だったが、
ダンテは実質力を封じられて無力に等しいので、ダンテの代わりを呼んでこようという話になったが、ダンテがそれを拒んだのだ。


―――長い、とても長い、戦いが始まった。
3人の天使の精神状態は異常な事態になりつつあった。
徐々に高揚し、錯乱していく精神。早まる鼓動。昇天した先を、さらに突き進むが如く、
3人は超越した領域を進んでいった。
神の領域、絶大なる力、超越した高速さで走るコンピュータの電子世界。
そんなものをいくつも、何度も、ウンザリするくらい垣間見て、歌魔法はひたすらに続く。
途中でその場を通りがかった天使のことも、歌の詠唱が始まってからどれだけの時が過ぎたかということも、
3人の天使は認知する余裕すら無かった。
長い長いプロセスを、いくつもいくつも、いくつも経て、それは気づけば止んでいた。
記憶はいくつも飛んでいて、もう頭は真っ白。ただ無我夢中だった。
たかが歌魔法、と侮っていたダンテは既に意識を失い、その場に倒れていた。
ローザは、辛うじて立ってはいたが、呆然とした様子で、口を薄く開いたままだった。
その場は一気に静まり返っていた。
誰も、何も、喋ろうとはしなかった、否、喋ることが出来る力など残ってはいなかった。


膨大な歌の魔法の後に訪れた、長い静寂。そしてやがて、歌天使のりんごが、我に返り、目の前の本を確かめる。
本の中身は様変わりしていた。黄色い文字が光りながら動き、何かを伝えている。
・・・・・解術の歌魔法は、どうやら成功したらしい。
やがて、ローザも、枯れ木の細い棒のようになった足を引きずりながら、りんごの方へやってきて本を確かめる。
ふっと一瞬笑みを浮かべて、ローザはそのままその場にへたり込んだ。
そんなローザにりんごはこう言う。
「ダンテさんを起こして。ここは歌魔法の聖域、誰が来てもおかしくない、目立ちやすい場所。」
ハッとローザもそれを受けて辺りを見回すが、これといって他の天使などは見当たらなかった。
(でも、そう、りんごの言う通りだわ。早めにこの場所を離れないと、でも・・)
「ごめんなさい、私、もうしばらく立てそうにないの。」
(りんごはあれだけの歌魔法を繰り出して、平気なのかしら?)
ローザは動けず、そしてダンテも意識不明。
結局りんごは一人で、この本を安全な場所に持っていくことになった。



その後、無事りんごは本をアーシャの元へ届けたが、
一番回復が早かったダンテに比べ、りんごは何ヶ月もの間、歌魔法を使えなくなっていた。
「我慢強い子ね、りんごって・・。」
回復し終えたローザが、巻き髪を整えながらそう呟いた。
「私、てっきりりんごは平気なんだとあの時思ったのよ。でも一番無理してたのね。」
ダンテが黙って横でそれを聞いている。
彼の視線は外を向き、彼もりんごのことを考えているようだった。
あの脅威の力。でもそれと引き換えに、今もりんごは寝込んでいる。
ダンテはなんとなく申し訳なさそうに、目線を落とした。
「ダンテはいつ目覚めたの?私より早かったんでしょ?回復。」
ダンテはふいっとローザの方を向き、まぁな、と言葉を濁した。
いつ目覚めたか、だなんて、一番初めに気絶してしまったダンテにとっては非常に答えたくない内容だ。
「やっぱり他の天使に助っ人に来てもらうべきだったのよ〜」
ちくりとダンテが気にしていることを言うローザ。
ダンテとしてはぐうの音も出ないが、ここはあえて黙りながら我慢。
「でも、ダンテも、りんごも、同じなのね。」
「・・・なにがだ?」
「りんごもダンテも、2人とも独りで頑張っちゃって無理するところ〜」
目を開き、眉を顰めてローザを見上げるダンテ。
なぜ俺とあの歌天使とが一緒にされるのかがわからない、といった風だ。
「・・・頼らなきゃ、ダメよ?もっと。私にも、他の天使にもね。」
ローザは包み込むような優しく低い声で、諭すようにそう言った。
とてもローザが心配してくれていることがダンテに伝わったのか、
ダンテは笑みに似た表情でフン、と鼻で返事をした。

「本はどうなったの?」
「今、アーシャが解読に当ってくれている。」
「まだかかってるの?もう随分立つのに?」
「・・いや、もうそろそろ出来る頃だろう。お前も動けるようになったんなら丁度いい、一緒に行ってみるか。」
2人はアーシャの元へ、当たり前の道を進み、当たり前の順路で、いつもの様に、そこへ向かった。

・・・・・だが。


「・・・まずいっ・・!!」
咄嗟にダンテが何かを察知して、ローザを引き連れ隠れた。
「・・・まずいぞ、中級天使、俺達より格上だ。」
「・・・ねぇ、見て、あれ。」
アーシャがいるはずの場所には、大勢の天使たちが群がっている。
「・・・・まさか・・・!」
ダンテたちは考えたくない想像をするしかなかった。
「あいつらがいるということは、アーシャは・・」
「天使たちに捕まったの?どうしてアーシャが??」
「本をアーシャが持っていることがバレたんだ。・・いつだ?解術作業の時か?」
ダンテは指先を頻りに細かく動かしている。焦っている時にやってしまうダンテの癖だ。
「落ち着いて、ダンテ、今はとにかく、逃げないと・・!」
「ダメだ!」
「何がダメなのよ。」
「本が、奴らに奪われる。」
「もう奪われた後よ!今行っても遅いわ!大体ダンテ、今魔法が使えないんでしょ?」
「ああ、それがな、攻撃魔法は封じられているが、防御魔法なら使える!」
「だ・・だからなんだって言うのよ、どちらにせよ無理じゃない。」
「無理なものか!せっかくの手がかりだぞ・・!せっかく俺達があんなに必死で・・!・・ああっ!くそっ!」
ダンテもローザもわかっていた。もうとっくに手遅れで、本が天使たちに回収されてしまったこと。
そして、アーシャが、捕まってしまったであろうことも。
「ローザ、お前の知り合いの中で、一番信頼出来て、口が堅い奴は誰だ?」
「何よいきなり?」
「もしかしたら歌魔法の時に俺とローザと、あのりんごとかいう天使、3人とも顔が割れてしまったかもしれない。」
「・・だから?」
「俺らと無関係な第三者であるお前の知り合いが、あそこを調査して、何か手掛かりが残ってないか調べさせ」
「ダメよ!」
ローザが勢いのある口調で反対した。
さすがのダンテも普段見せないローザの厳しい態度に言葉を途切れさせた。
「いーい?私の友だちはね、ただの都合の良いだけの存在じゃないの。
私の大切な人たちに、どうしてそんなキケンなことがさせられるっていうの?」
ローザはなんとなく怒っているようにも見えた。
ローザはみんなを、多くの天使を、大切にしていた。
それと比べるとダンテの場合、仲良くしているようでもドライな関係が多く、
ローザの友達ほどに信頼のおける関係の者は、とても少ないだろう。
ローザの言いたいことが伝わったらしく、ダンテは前髪を軽く掻き上げながら俯き、
少し自省するような態度をとって深く溜息をついた。
暫くの間俯いていたかと思うと、クルッとローザの方を向き、一言。
「・・すまなかった。俺のせいでアーシャを巻き込んでしまった。だが必ず、償いはする。」
ダンテはまっすぐとローザを見つめて最後にそう言い放ち、どこか遠くへ飛び立っていった。
ダンテの後ろ姿は、どことなく寂しげで、しかし強い決意を背負っているように見えた。
ローザの目にはそれがとても危なっかしく思えて、咄嗟に追いかけようとしたが、
ダンテの目がそれを拒絶していたため思い留まった。
「ダンテ・・ダンテも、ヴァイオレットも・・・どうしてあんなに、悲しそうな後ろ姿なの?」
ローザは心を痛めながら、ただ2人の兄弟の行く末を、無事を祈るしかなかった。







くせのある縮れた黒髪が、病室の白すぎる枕の上でばらけている。
男は眠っていた。窓の外は東雲の空で満ちようとしており、
男の手にうっすらと光が当たる。
男は夢を見ていた。
「ここは入り口なのだよ。だから、お前の汚れたものを全て洗い落として、
真の自分を見つけ出さねばな。
あの2つの塔で、全てを思い出してお行き。」

塔にのぼる。ひとつ、ひとつ、自分自身と向き合わされる。
歪められた記憶。叶わなかった思い。屈折させられた感情。
苦しみと葛藤と暗闇が、忘れていたものが、そこにはたくさん存在した。
そして失っていた、自分の心が、感情が、自分のほんとうの想いが、そこにはあった。
偽りのない、自分のストレートな感情が、胸の奥に、ぐっと強く強く入ってくる。
いままで真実だと思ってきたものには、たくさんの誤解があった。
自分の記憶は、ほんとうは沢山の歪みによって生まれたものだった。
黒い自分、白い自分。悲しみの自分、怒りの自分、喜びの自分、侘しい自分、そして・・
すべてを見た先にたどり着いたそこにあったのは・・
まばゆい、壮絶な熱量の金の光。
熱く、激しく、心地よく、暖かく、やわらかい。壮絶な光。
その眩しすぎる金の光に触れて――――


・・・・・・・・。

「あ。」
イメージが一瞬途切れたかと思うと、ふぅ・・っと目に入ってきたのは、病室の景色。
「またあの夢か、ふふ、困ったな。」
柴谷朋弥は笑っていた。何がそんなに楽しいのかというくらい、
いつも生き生きしていて、いつも笑っていた。

彼のベッドの向かい側で、女の子が体をまぁるくして寝ていた。彼女の白い布団はもうくしゃくしゃだ。

「ぷふふ、風邪引くのにな。」
朋弥は体をくねらせてベッドから軽快に飛び降りた。
女の子のくしゃくしゃになった布団をやさしく直し、女の子の上へ被せる。
ついでにベッドから落ちかけていたアヒルのぬいぐるみを枕元に置き直す。

――――以前の柴谷朋弥はこうでは無かった。
他人には極力関わらないのが普通で、
もしこんな風に、物好きにも他人の布団を直してやるような奴を見かけようものなら、心底馬鹿にしていただろう。
それどころか、不機嫌な時は他人をいじめたりもしていた。
気の弱そうな奴がいれば脅したり嘲笑してみたり、思いつめた表情で線路に飛び降りようとする老人がいれば、
「さっさとやれよ!」と強い口調で唆した。
とにかく彼は常にイラついていた。
何もかもが気に食わなかったし、何もかもが腹立たしくてしょうがなかった。
休日交差点を歩いていると、人混みの鬱陶しさから、
「こいつら死ねばいいのに。」
と、そんな自分勝手なことを考えていた。

そんな朋弥が世の中で最もキライな人間、それが、正義感ぶった人間、偽善者だった。
人間はみんな心の底は黒いものだと、醜いものだと彼は考えていた。
自分のようなものなのだと。
だから、所詮人類なんて大した価値もないし、絶滅したっていいんじゃないかぐらいに考えていた。
彼にとって世の中すべてがくだらなかった。
だからといって、世の中を変えようとか、そんなことは露ほども考えなかった。
彼は、ただでさえくだらなくつまらない世の中を、より良く生きるために、"刺激"を求めた。

過激な映画や漫画やドラマを好んで見、その極端な世界を楽しんでいた。
グロテスクなものも、ホラーも大好物で、でもなぜか、見てる瞬間は楽しいのに、
見終わった後になると、途方も無い虚無感が彼を襲った。
「ああ、くっだらねえ!」
これが彼の口癖だった。

人の不幸は蜜の味、これこそまさに彼の座右の銘とでもいえそうな生き方を彼はしていた。
中途半端に志を持った人間を潰すのが楽しくて、
素人が一生懸命技を磨いていたり、夢を追っていたりするところをみると、
これでもかというくらいに、罵倒した。
朋弥の強い批判に晒され続け、夢を諦めたものも、心を閉ざし人間不信になったものも沢山いた。
朋弥にとっては、そんな弱い人間の姿を見るのがそれなりに愉快で楽しかったのだ。
気に食わない奴や、調子に乗っていそうな人間を見つけると、弱点を必ず見つけ出してボロクソに言ってやる。
そうすると、人間というのはものすごい顔をした後、さっきとは打って変わって弱くなるもので、
どんなに強そうにしている人間も、どんなに横行闊歩している人間も、
攻撃を受けた瞬間ダンゴ虫のように、急に弱くなって縮こまり、丸くなるのだ。
そんな弱い人間の姿をあざ笑うのが結構楽しい。
どんなに強そうにしている人間でも、うまいこと攻撃してやれば、簡単に弱くなる、
そんな姿を見ていて、朋弥はまるで、自分が強い人間になったような錯覚を覚えたのかもしれない。

本人はただ楽しくてやっているだけなのだが、彼は実に多くの人間の志を挫き、夢を潰してきた。
彼にとっては出来もしないくせにおめでたい思考回路で、お幸せな夢を持って頑張っている人間が嫌いだった。

しかし彼はあるとき、いつものように気に食わない奴を罵倒していると、こんな言葉を言い返された。
「じゃあお前はなんか頑張ってんのか?なんか努力してるのか?なんにもしてない人間にだけはとやかく言われたくない。
だいたい、お前のように偉そうに上からものを言って批判するのは頑張ってない奴のすることなんだよ。
お前、一度でもなんか真剣に取り組んだことあんのか?!命かけてさ!」
それは小学校の頃の同級生からの言葉だった。
咄嗟になんかムカついて、殴ってしまっていた。
しかも間の悪いことに、周りにいた他の同級生に見られていた。
何があったんだよ?と聞かれたが、朋弥も朋弥に言い返した同級生も、何も言わなかった。

朋弥は、大して成績が悪いわけでもなく、何かに困っていたわけでも悩んでいたわけでもない。
家はそれなりに裕福だったし、志望していた私立の学校にも通えた。
家庭も、何の問題もないように思えた。
ならば何が、朋弥を、こういう人間にさせてしまったのか?
彼は、母親との関係が、少しばかり希薄だった。特に幼少時代は。
親からああしろ、こうしろなんて言われたことはほとんど無い。
放ったらかしで、結構自由にさせてもらえた。
だけどひとつ、欠けていたものがあった。
彼は、人生とか夢とかについて、親に何かを教わったこともなかったし、
親が朋弥のそういったものに関心を向けることも無かった。
朋弥の親にとっては仕事が大事だったし、朋弥も自分たちのように、好きに人生を歩めばいいと思っていた。
朋弥は親が自分に対して無関心なことを、肌で感じてわかっていた。
そのことに対して疑問は持たなかったが、どこかいつも心に虚しさがあった。

「自分を見てほしい」
いつしか心の奥底でそんな感情がゆらめいていた。
でもそんな心の奥の叫びに朋弥が気づくことは無かった。

何をしてみたって、親の関心が、誰かの関心が自分に行くことは無かった。
ちょっと悪いことをしてみたって、怒られて、それで終わり。
淡白で形式的な怒られ方。何か大切なモノがいつも欠けていて、いつも何かが得られない。
じれったい、もどかしい、むなしい・・。

世の中なんて、つまらない。生きるなんて、くだらない。

俺が死んでも、誰も泣かないし、お前が死んでも、俺にはどうだっていい。

―――――俺は、事故に遭った。

入院した。右足が動かなくなった。親が、知り合いが、親戚が、見舞いに来た。
親が、仕事を休んで俺のもとに来てくれた。嬉しかった。
人生で、初めて、仕事より俺を優先してくれた。
でもしばらくして、俺が命に別状がないとわかると、親どもは仕事に戻りやがった。
俺を放って。

俺は再び虚しさに苛まれた。怒りも覚えた。
リハビリをしなきゃならないとかで、動かない右足を無理やり動かさされた。痛かった。
苦痛この上なかった。なのに俺のもとにはもう誰もいなかった。

事故に遭ったっていうと、最初だけこぞって見舞いに来て、花束やらお見舞金やらを持ってきてたくせに、
しばらくして落ち着くと、誰もやって来ない。
たまに夜遅くになってから親が来て、俺の着替えを持ってくる程度。

この親は、俺の衣食住はきちんと整えるくせして、俺の感情とかにかまってくれた試しが無い。
見てくれはいいんだ。近所でもいい親だとか、理想の親だとか、きちんとしてるだとか、出来る人間だと評判で。
確かに家が散らかってるとこも見たこと無いし、外食もしない。
仕事にしか目がないわりに、なぜか食事はそれなりに整ってる。
いつもテキパキしていて、いつもわりと急かされる。
何やっても手早いし、身なりもいつも綺麗だ。
・・でも、俺はこの親どもがいい親だとは思わない。
なんかこいつらはとにかく自分が大切で、自分のためだけに生きてる気がする。

俺のことなんて、たぶん世間体を良くするためのなんかのオマケ、付属品なだけなんじゃないかとも思う。

俺はそんな中で、こんな苦痛に満ちたリハビリをするのが馬鹿らしくなった。
俺はリハビリをやめて、一日中病院のベッドで寝っ転がるようになっていた。
世界がますますくだらなく見えてきた。
俺自身の存在も途方もなくくだらない存在に思えてきた。
―――寝ることが多くなった。
何日寝たかわからない日も多くなっていった。

それから病気にかかった。
もう何もかもがどうでもよかったから、運動もしなかったし、体も弱っていて、病気になりやすかったんだろう。
その後、俺は意識不明になったんだ。



そして、あの、極楽地獄に、辿り着いた。


あれは全部夢だったのかもしれないし、何もかもが現実と違っていて、今ではあの体験が奇妙に思えてならないが、
ただ、記憶は妙に鮮明で、あの時のことはすべて覚えている。

極楽地獄で自分と出会い、初めて自分の心を知った。

俺が、本当は、寂しくて、悲しくて、そして虚しかったこと。

それを初めて知った。俺が、本当の俺がこんなに悲鳴をあげていただなんて、
絶対ふつうに生きていたら気づくことなんてなかっただろう。
これまでだって俺はこれほどの壮絶で痛切な悲鳴に、わずか1ミリほども気づくことが出来なかったんだから。

過去の俺にアドバイスするならこうだ。

何かむしゃくしゃするんなら、他人とか、世間を責める前に、自分がなんでそんなにむしゃくしゃすんのか、
それを考えてみろよ。
・・そんなのわかりっこないって?
でもむしゃくしゃしてんのは俺自身なんだから、どうしてむしゃくしゃしてるかなんて、俺にしかわからないんだぜ。

俺が一瞬でもいいから、俺自身の悲鳴に気づいてやれてたなら、こんなに事は大きくならなかったし、
大勢の人間を不幸にしたりさ、挫折や死に追い込むことも無かったんじゃねぇか?


人間ってのは、本当の自分を取り戻した後で初めて後悔するもんだ。
ああ、あの時は、あの頃は、かつての自分は、相当酷いことを、周りの連中にやってきたんだな。
むしゃくしゃしてたからしょうがなかったとか、そんなんじゃなくてさ、
俺がただ、未熟だったというか、俺が幼稚だったんだなって、後になって初めてわかる。
いや、ふつうに生きてたらこんなこともわからなかった。
あの塔で、過去の自分を全部見さされたんだ。なんか嫌だった。俺がなんか、極悪人に見えたりもした。
こんなもん見たくないって思った。俺はどこかで俺がしてきたことをなんとなくわかってたし。
でもここまで酷かったとは知らなかった。
俺は直接人は殺してないが、人の心は何度も殺してきた。
それがあの今までの自分の記憶を、ありのままの過去を鮮明に見さされて初めてわかった。
ちょっと恐ろしくなった。罪の意識みたいなのが芽生えて、なんか報復とか、そういうものも恐れたし、
何かが怖くなった。
自分のしてきたことの重大さを初めて知って、なにか恐ろしくなったんだ。
目に見えないものが俺を見てる気がするっていうか、なんか、何かが猛烈に怖くなってきて、俺は気が付いたら誰かに許しを請うていたんだ。
本当自分でもビックリだ。
こんなことするなんてな。

だって誰も見てないし誰も知らないと思ってきた自分がやってきたことが、
ありありと、まざまざと、鮮明に、目の前で見さされるんだぜ?怖いよな、フツー。
―――――俺が知ってたんだ。
俺は俺のしてきたことの、何もかもを知っていた。

誰も見てないし誰も知らないと思ってきた俺のしてきたこと、
それを誰よりも近くで見ていたのは、俺自身だった。
俺のしてきたことは、俺自身が誰よりもよく知っていた。
でも俺はそのことに長らく気付かなかった。
何もかもにフタをして生きてきたから。

もうやめようと思った。
こんな人生は、こんな生き方はもうやめようと。
俺はしばらく、何かに怯えていて、何かに必死で許しを請うていたけど、
そうしているうち、だんだんと、悲しみとか、憎しみとか、そういった感情を全部取り除いたような、
すごいきれいな、ありのままの俺が俺に近づいてきたんだ。
俺は、そいつと出会って、初めて本当の俺に戻った気がした。
なんか安心して、ちょっとあたたかい気分になって、むしゃくしゃしてた気持ちとか、
荒ぶって、イライラしてたものがなくなってきた。

俺は俺を偽って生きてきたんだと、ホンモノの俺と出会って初めてわかった。
自分の心を、感情を見ようともしなかったし、ごまかしていたし、無関心だった。
だからイライラして、ムカついて、世の中の何もかもがうざったく思えていたんだ。

本当の俺の心がわかった瞬間、すっと心は落ち着き、苛立ちは止まり、なんか世の中の真実っぽいものとか、
ありのままの自分とか、ありのままの世界の姿が見えるようになってきた。

世の中ってのは、俺が思ってるより悪くなくて、それでいて、世の中は、良くも悪くも、どんな角度からでも見えるんだ。
見たいように見えるんだ。
世界ってのは、俺が見たいように見える。こんな自由なもんだとは夢にも思わなかった。

世界が綺麗で良いもんだって思えば、そのような世界を見せてくれるし、世界の綺麗で良いところを沢山見つけ出せるようになる。
悪いって思えばそのように世界が見えてくる。
俺が歩く世界は、俺が決めていたんだ。俺が形作っていた。
俺が世界の有り様を決めていたなんてな。

俺はきっと、今まで目を閉じて歩いていたんだろうな。
なんにも、世の中にあるものを、なんにもみないで、目を閉じて歩いて、批判だけしてた。
だから世界がこんなにくだらなかったんだ。

俺は世界がこんなに光り輝いてて綺麗でスゴイってこと知らなかったな。
それでいて奥深いんだ、なんか探求しても探求しても、尽きない何かがあるっつーかさ、
それぐらい、奥深い何かがあって、すごい重厚さとか、大きさとか広さを感じるんだ。

生きるって楽しいもんなんだな。
たとえ病室のベッドにいてもさ。
見つけようと思えば見つけられる楽しい事なんて山ほどあった。
そのうえ、向かい側の女の子はいつも元気でさ、俺を楽しませてくれるんだ。

ほんとうに笑うことが尽きないな。

人間、楽しいと、例え転んで怪我しても楽しいもんだよな。
食事が不味くてもなんか楽しいんだよな。不思議だな。


それどころか、俺のことを悪くいうやつがいても、可哀想だな、ぐらいにしか思わないんだ。
過去の俺みたいにさ、何かに囚われて、縛られてそこから抜け出せないまま生きてるからああいう態度になるんだ。
ちょっと同情するよ。
俺みたいに笑えばいいのにな。何もかもが明るくなるし、楽しくなるのに。
きっとそれが、そいつにはわからない。ずっとわからないんだ。可哀想だよな。

せめて俺が楽しくしてやろう。ちょっとそいつが面白がることでも言ってさ、
なんか笑わせてやろう。そうすりゃそいつだってちょっとは陽気になるかもしれね。
そいつが笑えばもっとここも明るくなるしな。
この病室が明るくなれば、この病院全体が明るくなるしな。

そうやって楽しさってのは広がってくんだろうな。
ああ愉快だ。
もっと人を笑わせてやろう。もっと楽しませてやれ。暗いやつ見つけてな!

はははははは!面白そうだ。考えるだけで笑っちまう!あははははははは!

みんな笑っとけよ!人間笑ってるときが一番楽しいんだぜ。

とりあえず笑ってようぜ!









―――――ポクン。ポクン。ポクン。
何かが生まれては消えていく、そんな音。
それは生き物のようで、それは光のようで、それは・・。
降り注ぐ光の中に、少女はいた。
そこは天井が崩れ落ちた廃墟の教会のような場所。
神聖な空気が漂っていて人気がない。
古びた異空間の隙間から神界からの光が零れ落ちる。ひらひら。はらはら。
ここにいるとこの独特の世界に取り込まれてしまいそう、
溶けて、やがてこの空間と一体になってしまいそう。


・・・・ここは天界?誰もいない。

―――――そう、ここは天界。神の力が及びにくい場所。

ふと、そう、誰かが答えた気がした。咄嗟に訊き返す。

・・あなたは誰?

―――――わたしは記憶。ここに蓄積された記憶。

・・記憶?

星であり、粒子であり、宇宙を構成するもの。天界の記憶を持つもの。

多くの悲しみのエネルギー。多くの喜びのエネルギー。
人々の営みと、世の流れ、すべてを見てきた。私は世界。ひとつ。あなたとひとつ。

私と?

たくさん悲しんだわね。あなたはりんご。今はそんな名前。

私のことを知っているの?

知っている。遥か昔から、私たちはひとつ。この行く先も、私たちは一つ。
やがて融合を果たすあなたとわたし。わたしの愛しいりんご。あなたはどうして自分を愛さないの?

・・私が私を愛する?

あなたは私を愛することを忘れてしまった。あなたを思い出すことを忘れてしまった。
この世界に生きる多くのいのちたちと同じように。

・・・多くの、いのち。

私の声を聞いて。思い出して。ささやいて。私を見て。

・・・悲しい。わたし・・ずっと多くの時を悲しみで過ごしてきた。

そう、そう、だからりんご、あなたはりんご。そうしてりんごは生きてきた。

・・私はどうすれば良い?

りんごは、りんごが思うとおりにすれば良い。私を見て、世界を見てくれさえすれば、
あなたの望みは叶う。ちゃんと目を見開いて、私を失わないで。
私はあらゆる記憶と叡智をあなたに与えることが出来るのよ。
わたしを、忘れないで。りんご。

・・・・・・・。


光がどんどん小さくなる。消えて、何も、見えなくなっていく。
・・・・・・・・・・。





何か冷たいものが、頬を伝って流れたような、そんな感触を覚えて少女は目を覚ました。
「あ・・・・」
りんごは夢を見ていた。とても懐かしくて、悲しい夢。そして不思議な夢。
何かに包み込まれるような温かさと、悲しい記憶。
りんごの中にはたくさんの悲しみが存在していた。
りんごの悲しみの歌が、世界中のあらゆる悲しみと共鳴する。
りんごはそれを癒すために歌い続けた。
そんな昔の記憶が蘇ってきた。
「懐かしい。多くの時を、わたしは生きてきたのね。」
多くは忘却してどこかへと眠ってしまった記憶の断片。
それが何かのキッカケでありありと鮮明に蘇ることがある。
「・・きっと、ものすごく久しぶりにあんなすごい歌魔法を使っちゃったから。」
軽い溜息をつき、りんごは辺りを見回した。
「これは、アーシャさんが、私のために作ってくれた、治癒のための光のストリーム。ここで私、寝てたんだわ。」
・・・アーシャさんは、どこかしら?

りんごがアーシャのもとへ本を届けた際、アーシャが疲労困憊していたりんごのために特別な空間を設けてくれたのだった。
アーシャは天界に独自空間を所有しており、自在にそれを操ることが出来る。
そこであらゆる研究や調査を行ったりしていた。
普段はこの独自空間に入り浸りの引篭もり状態なのだが、気が向けば、たまに来る訪問客にはそれなりの饗しをしてくれたりもする。
サッパリした性格で、普段はあまり面倒見が良くない方なのだが、
りんごのあまりの疲弊した姿を見てさすがのアーシャも放っておけなかったということなのだろう。

「やさしいヒト、あったかい。あのヒトが作ったストリームは、とてもあたたかい。」
りんごはアーシャ特製治療ストリームの中で、ほんわり癒されながら、そんな独り言を呟いていた。
・・その時だった。

けたたましい破裂音!

何か鋭いものが斬りこむようにいきなりアーシャの空間をバラバラにし始めたのだ。
その攻撃は容赦が無い。
ダンボールに隠れている人間を上からダンボールごといきなり斧で叩きつけるような凄まじさと恐怖と緊張が、
同時にアーシャにも、りんごにも流れた。

2人共、その瞬間死を覚悟した。
この衝撃の凄まじさでは、一瞬にして、命が無くなることを、本能が感じ取っていた。
防御する余裕もなく、ただただ、2人は、目の前に迫り来る死と、恐怖と、そしてその目の前の攻撃に、
体全身を強張らせ、何もかもが頭から吹っ飛び、ただ何かを受け入れようと、ただそうするしかないと、
諦めと、恐怖と、焦燥と、そして無へと向かう悲しみが、一瞬のうちに掻き消された。


―――――天に抗うものは天罰を喰らい、命は瞬時に消滅させられるであろう。

昔、はるか昔の人間界の神殿に、そんな言葉が、古代文字で掘られていた時代があった。
人々は神に服従し、神を恐れ、神を敬い、戒律を定め、法で人を縛り、管理し、善悪を取り決め、すべてを神の名のもとに行なっていた。

悲しき、悲しき、小さな存在たち。

私たちは抗えぬ。決して、決して、抗うことなど許されなかった。
抗えば消されるのみ。そんなことは知っていたのに。
ただ一度だけ、その秩序の、秩序ある世界の外に出てみたかっただけなのに。
私は消され、みなも消され、そして記憶は、感情は、心は無に帰す。

私は、私たちは、遥かに大きな、大きな存在の、たった一粒だけの存在にすぎないのだ。
大きな流れには逆らえず、そう、何か、何かが出来ると私たちは信じていたのだ。
・・・無念だ。

私達は、神に逆らい、殺される、否、存在そのものをこのどの世界からも消されてゆくのだ。

無念、私たちは、ただ、自由が欲しかった。



法を犯し、罪とされたことをやると罰せられる。そんな法に疑問を持った。
神というものに疑問を抱いた。私はこの世界の、ありとあらゆるものが理解できなかった。
何もかもが受け入れがたかった。

弱き者が死に、強き者は優遇され、目に見えぬものが法を定め、神と名乗る。

私は神がどんな存在かなどわからぬが、こんな我々を縛る神なら存在せぬ方がましだ。
しかし我々は、大地のエネルギーから育つ穀物、動物、水で生きている。
我々はとてつもなく小さく弱い。
我々は何一つ成せなかった。

私はただ、この世界の有り様が、私の求める善と違っていた、それだけなのだ。
ただ、それだけだったのだ。


本当に良き世界とは、このようなものなのだろうか、ただそう思い続けていただけなのだ。
神の領域を犯そうとか、冒涜しようだとかなどとは思っていない。
ただ見たかったのだ、私の、求める、自由な世界というものを。


繰り返される歴史。多くの同じ様な出来事が、今また起き、そして消えてゆく。
回り回り、巡り巡る。この世界の秩序を作ったのは誰か?
神か、それ以外の誰かなのか、それとも。


残酷とも言える無限の時間の中で繰り返される悲劇。
2人の天使が、今、そこから姿を消していた。
いや、アーシャのいた、りんごのいたその空間ごと吹き飛んでいた。
周りにいた天使たちが口々にこう囁いている。

―――――天罰、と。

やがて、中級天使たちが集まってきた。
異例の数の多さだ。中級天使が群がり、それをもの珍しそうに見る天使たちがさらに周りに集まってきている。
中級天使たちは何かを調べたり、書き留めたりしていた。
上にある神界を見上げる天使たちもいる。
その周りの野次馬天使たちが口々にああだこうだと、憶測で噂を立てていた。

遠くの方から、ダンテとローザがこちらに向かって来ようとして咄嗟に隠れた。
ダンテが中級天使の一人を見つけたからだ。服装でそれが、調査関係に属している中級天使だとダンテはわかったのだ。
しかしこの時彼らは知らなかった。

大勢の中級天使や野次馬天使たちの群がりで気付かなかった。

アーシャが捕らえられたのだと勘違いをした。
中級天使がアーシャを捕らえたのだと。

その辺一帯の空間が吹き飛んでいることに気づくべきだった。
もう少し冷静に見ていればすぐに分かったことだったのに。
ダンテはとても焦っていた。

しかしローザはその後すぐに知ることとなった。
アーシャが、いや、アーシャだけでなく、
アーシャとりんごが、空間ごと吹き飛んだという事実を。


「誰が?どうしてそんなこと!何も存在自体消すなんてことある!?」
ローザは困惑していた。悲しみと、驚きで、事態を受け止められずにいた。

「・・みんな天罰って言ってるわ。」

「・・天罰?何よそれ、あの二人が何をしたっていうの・・」
ローザは顔を両手で伏せ、しゃがみ込んでしまっている。

「あ・・私も直接見たわけじゃないから。」

ローザのあまりの悲壮な状態に、ローザの友の一人、フェテネは続きを話すのを躊躇った。
「ごめん、誰もホントのことはわからないのよ、憶測で言ってるだけ。とりあえずオリベンハーブで落ち着かない?」
両手を小刻みに震わせて恐らく泣いているであろうローザをそのままには出来ず、他のものに意識を向けさせようとするフェテネ。
ローザの手はとてもか細く、繊細で白く柔らかだった。そんな手で顔を覆い、泣いているローザ。
とても一途で繊細で健気な少女のようで、ローザのそんな様子を見ていると居た堪れなくなる。
普段は笑顔いっぱいで、きっとローザは、出来うる限りの努力をして、人々に、天使たちに笑顔で元気と幸せを振り撒こうとしているのだと、
ローザの周りの天使たちはみな薄々気づいていた。
いつも笑っている。いつも。悲しみの表情や、怒りの表情など、見たことがある天使の方が少ない。
みんなの太陽。みんなの笑顔の源。みんなの中心。それがローザだった。
いつも綺麗で優しい、そして元気で明るい。それがローザだと思っていたけれど、
今、フェテネの目の前にいるローザはまるで違う。

体が崩れ落ち、弱々しい細い手で必死になって、顔を、涙を隠しながら、
それでもものすごく一生懸命、心が締め付けられるほどに一生懸命に泣いて、泣いて、泣き崩れて、
それなのにやっぱり、周りの天使に気を使い、深い悲しみにはまり込んでしまわないように、
どこかで必死に自分を制御しようとしているのがわかってしまう。
とても、名状しがたい痛ましいローザの姿がそこにあった。

「ねえ、ローザ、泣きたい時はね、ちゃんと声を出して泣いて良いの。」
ローザの小さく丸まった小刻みに震える背中にそっと手を置き、優しく囁くフェテネ。
「笑うことだけが良いことじゃないのよ。ちゃんと、悲しい時には泣いて、嬉しい時にはうんと笑いましょう。ね。
心には、悲しみや、怒りや、虚しさや、寂しさ、色んな感情が用意されているのだから、
それらを表現することは決して悪いことではない。
ローザはもっと、自分の心に素直になっていいの。

そうフェテネは続けた。


それでもローザは掠れそうな小さな声をか細い手の隙間から漏らしてただ泣いているだけだった。


―――――光が充溢する天界。
たくさんの優しいささやき声が目映い光の中に木霊し、
世界にそれは広がり、
じわじわと、ゆっくり、侵食していく。

肩を落とした者を励まして、
「大丈夫、あなたは悪くない。
また、いつだって立ち上がれる。」
古くからの友人がそんな力強いエールを贈るように、
縮こまった背中に手を置き、落胆に暮れた者を最大限に鼓舞するように
天界の光たちは、ローザに集まって、ローザを包み込む。


大勢の、大きな、多くの、目には見えないものたちが、
悲しみに暮れるもののところにやってきて
傷ついた心を包み込み、大丈夫、大丈夫、・・
そうひたすらに、囁き続ける。

あなたが再び立ち上がれるようになるまで、
私たちは、永久に、ひたすらに、
あなたに力を与え続ける。

たとえ私達のことに気付かなくても、
私たちはあなたを励まし続ける。

元気なあなたを見たい。
あなたに再び光を。
あなたに再び希望を。
あなたに再び活力を。


その光は小さすぎて誰も気付かない。
でも確かに存在する、その小さきものたちは、
一生懸命に、ただ一心に、ただ健気に、
絶望や落胆を癒そうとしているのだった。

小さな鈴のような声で泣いていたローザを、
多くのものが見守っていた。
今か今かと、再び前を向けるようになるのを、
ずっと待っていた。

フェテネもまた、我慢強く、ローザの横に座って、
彼女を見守っていた。
ローザの小刻みに震える小さな小さな背中を優しく摩りながら。


人間界では、昼が過ぎ、夜が過ぎ、また昼が過ぎ、そして新月の夜が到来していた。


そんな時、落胆していたローザのところに、彼女を呼びに天使が一人訪れる。
「ローザ、オンスェール様がお呼びです。」
低くて、淡々とした声が、重々しい空気を割いて入ってきた。

うすく溜息をついて、フェテネがローザに向かって言う。
「・・・・行けそう?」
無言で小さくローザは頷いた。

見ているだけでも痛ましいローザの姿。
今にも崩れそうな体を頼りなく起こして、
ぐちゃぐちゃになった顔を髪で隠しながら、
子鹿が初めて立つ時のような弱々しさで
ローザは迎えに来た天使の後についていった。

フェテネはその時のローザの細くて弱々しい、
真っ赤になった小さな手と顔が脳裏に焼き付いていた。
ボンドで応急的にくっつけて修復しただけの、バラバラに砕けてしまっていた陶器、
ローザの姿はまさにそんなふうだった。

フェテネは心配で堪らなかった。
もともと深奥はガラスのようなローザの心。
ふだんは活発で、気丈で、元気な彼女だけど、
過去に一度だけ、あんな姿を見たことがある。


ローザが人間界に行って帰ってこなくなった時。
随分たってから、ローザが天界に運ばれてきた時。
あの時のローザは、ふつうじゃなかった。

枯れた棒っきれのような手足に、光を失った目。
フェテネがよく知るツヤツヤな桃色のカールした髪も
その時はまるで黒ずんで干からびた根っこのようだった。

ローザは全てを拒絶していた。

ただ人間界に戻りたいと、そんなうわ言を言っていた。

いったい何があったのか、フェテネも詳しくは知らない。
だがあの時の尋常ではないローザを、嫌でも思い出してしまう。

今のローザの姿と、重なってしまう。
普段以上に細さを感じてしまうローザの頼りない後ろ姿が、
フェテネの目を捉えて離さない。

ドク、ドク、と地面の底から突き上げてくる重く、黒い焦燥と不安。

どうかこの不安が現実になりませんように。

そう、ローザを貶めた悲しみの根源かもしれない神に祈る。

天使は弱い生き物だと、誰かが言っていた。
人間もそう。世界を恨みながら神に祈る。
神を恨みながら神に祈る。

すごく大きな矛盾。悪魔のほうがそういう意味では独りで生き抜いている気がする。

悪魔は神に祈らないらしい。誰にも祈らないらしい。もともと祈る対象など持たないらしい。
祈るならば自分に祈るのだそうだ。
悪魔たちにとっては自分が支えであり、自分が神であり、自分が何よりもの中心だから。

とっても自分を大切にしている、ということなのかもしれない。

人間ならば良い生き方に見えるけれど、でも悪魔の場合はそうじゃない。
自分以外のものに対する信用の無さと、冷たさが途轍もない。
悪魔たちの生き方はクールで自分本位だ。
何時他人に殺されてもおかしくないと思っている。
みんないつも死を覚悟しながら存在している。

自分以外の者には途方もなく冷たい。
そして、それでいて、他のものの苦しみを、誰よりも知っている悪魔たち。
のた打ち回り、這いずり回り、世界を呪い、自分を呪い、全てを呪って行き着いたこの魔界。
苦しみは、誰よりも悪魔たちこそが知っている。
だから、人間を墜落させるのがこれほどまでに得意なのだ。
苦しみがわからなければ、人間たちを失墜させることなど出来はしない。

泥に塗れて尚存在する自分たちこそが、最高に素晴らしいと、悪魔たちは己に誇りを持ち生きている。
どうしようもなく世界を、宇宙を支配する神という秩序そのものに反して生きている自分たちを至高だと、そう信じている。
神が正義なのではない、己こそが正義だと、何の躊躇いもなく、悪魔たちはそう言うだろう。

悪魔たちからすると、中途半端な高いところで苦しみ喘ぐ人間ども。
そんな中途半端なところにいるから苦しい。
さっさと落ちてこい。ここまで落ちろ。そうら、俺らの地獄はそんな生半可なもんじゃねえぜ?
そこで身動き取れなくなってんならな、俺達が助けてやろう。
ここまで引き摺り下ろしてやるから、早く俺達みたいになるんだよ!

もしかしたらそれは、愛情、なのかもしれない。

悪魔たちは自分たちこそが最高に素晴らしいと信じていて、中途半端な位置にいる人間たちを、
もっと自分たちのようにしたいと思っている。
そんな地獄に人間たちが耐え切れないことも知っている。
過去に地獄に引き摺り込んだ人間たちは、みんな地獄の業火で焼け死んだ。

呻きながら死んでいった。無様で、呆気無くて、虚しい光景。

期待外れ。―人間って弱いんだな。悪魔たちはそんな人間たちの姿を見てそう実感した。

どこかで期待していたかもしれない。仲間が増えることを。
どうして期待なんかしたんだろう。

仲間がほしい?本当は、自分のことを、誰よりも、・・わかって欲しかった?


でも呆気無く崩れ去っていく人間。


ここまで辿り着いてくれない。

地獄の業火の先の先。悲鳴を上げて、呪って苦しみ憎しみ、ひと通りの悪行三昧を重ねて、
殺し、殺され、のた打ち回って行き着く場所。

この場所に来ることを、ちょっとだけ期待していた。

―――――オモシロクナイナァ。

――――――――――ホントホント。

テレビを見て文句を垂れる軽いノリで、悪魔たちがそう愚痴る。

――――――――コンドハイイタマガトレルトイイナ。
―――――ギャハハハア!ソリャ10億年カカッテモムリ!

悪魔たちの奇妙な常識。
悪魔たちは今も、いつでも、人間たちが墜落した果てにこちらに来てくれるのを、
今か今かと、待ち焦がれている。

辿り着いて、身を真っ黒に染め、黒々敷く蠢く、自分自身と対面せよ。
そう、そうなればお前も、立派な悪魔さ。


ギャハハハハハハハァア!!!!!!!!




そんな悪魔の地響きのような笑い声が微かに聞こえるか聞こえないかの人間界で、
ノルディはぱっと梅紫色の扉を開けた。
「ちょっといるの?いないの?どこ?」
いきなり声を張り上げて叫んだかと思うと、
どかどかと家中をのし歩き、まるで軍が占領しに来たかのように、
そこら中の扉という扉を勢い良く開け放った。

「ちょっと居ないじゃない!」
いきなりキレ気味のノルディ。軽く舌打ちしてひと通りヴァイオレットを探しまわった後、
リビングで派手なクッションをひと殴りして憂さ晴らしをする。

それからしばらく、だらしない格好で寝っ転がった後、
ぱっと起き上がり、数秒も経たない間に家を出て行った。

ヴァイオレットとは対照的で、見事なまでの切り替えの速さだ。










その頃、ヴァイオレットとごんべえは、人間界を彷徨っていた。
たまたま話の流れである男の話が出たのだ。
以前廃屋が何かにぶつかった時、瓦礫の下にいた男。
ひょろんとして、細長い、奇妙な男。
ヴァイオレットはもう、極楽地獄なんてどうでも良かった。
でも、ヴァイオレットは何処かに行き場を探していた。
ジルメリアに関する情報も全く得られないままだった。
そんな時ふと、あの男が言っていたことを思い出したのだ。

「極楽地獄っていえば、永遠の地のことですかね。
伝説的存在、お伽話ってやつですかな。」

―――どんなとこなんだろう?
本当にそんなものあるのかな・・?

そう半信半疑ながらもその話をごんべえにすると、
話の話題が廃屋に移った。

そしてふと、思い出す。

―――――そういえば、あの廃屋、奇妙なものがいっぱい置いてあったんだった。

ごんべえさんは、人間のニオイがするけど、なんか不思議な人だし、
何かわかったりしないかな・・。
もしくはごんべえさんの知り合いが何か知ってたり・・。


「・・・ここですか?」
ごんべえの声ではっと我に返るヴァイオレット。
「あ、そ、そうです。ここ・・」

辛うじて全壊には至っていなかったその小屋は、
辺りに瓦礫を散らしたままの姿で、2人の前に建っていた。

「ここになにか、不思議なものがいっぱいあって・・」
ヴァイオレットが先に廃屋に入りごんべえを導く。

改めて見ると、やはり奇妙なものばかり。
でもここにあった物の半分以上が瓦礫の下に埋もれてしまっていそうだ。

ヴァイオレットは真剣に埃だらけの物を手に取りながら観察していたが、
ごんべえは廃屋の中央に立ったまま、ぼうっと宙を見上げている。
そんなことには全く気づかず、ヴァイオレットはあの時見た物が無いか、ガサゴソと探していた。
何度かそこにあった物を手にとって眺めた後、床にそれを並べていると、
手元が狂い、朱色の碗がゴロゴロっとヴァイオレットの背中の方に転がっていった。
「あ、ごんべえさん、すみません・・そっちにお碗が・・・」
そう振り返った時、ごんべえはなんとも言えない優しく、不思議な表情で、廃屋を眺めていた。
その表情を見た瞬間、思わずうっとりして、ヴァイオレットはごんべえの顔を見つめていた。

―――――どうしてあんなカオができるのかな・・。
どうしてあんな優しそうな顔ができるんだろう。
どうしてあんな・・・愛おしそうな目で、ものを、見るんだろう・・・・。

ヴァイオレットはごんべえから底知れぬ優しさを感じていた。
どうしてこのヒトは・・・こんなに・・・


ヴァイオレットがごんべえに見とれていると、ごんべえがヴァイオレットに気づいた。
「あ、どうかしました?」
にっこり笑顔。やっぱりこの笑顔がごんべえさんなんだなぁ、とヴァイオレットはそう思う。
両肩をちょっぴり持ち上げて嬉しそうに篭った声で笑うヴァイオレット。

「なんかごんべえさんが気になるもの、見つかりました?」
そう尋ねてみると、眉を上にあげて、ちょっとおもしろい顔になるごんべえ。
「・・・この廃屋、何処から持って来たんでしょうね?」
「・・・・え?」
「・・・この時代にそぐわない、不思議な匂いのものばかりですね。」

ごんべえがなんだか奇妙なことを言い始めた。
ぽかーーんとちっちゃく口を開けて聞いていたヴァイオレットを見て
ごんべえは笑って、そんな感じがしただけだ、とそう付け足した。

ヴァイオレットは何時間もそこに居座って、何か手掛かりになりそうなものが無いか
ガサゴソと探し続けていた。
ごんべえはそれを手伝う気配もなく、ぼうっと、辺りを眺めてみたり、少し何かに触れてみたりそんな程度で、
ヴァイオレットは正直、思ったより頼りにならないなぁ、と心のなかで思う。

・・・そんな中、ごんべえが突然、小さな声を発した。
全く緊張感の無い声だったので、どうせ独り言か何かだろうと思っていたのだが、
ごんべえの方を向くと、ごんべえの視線の先に人影があったのだ。

ヴァイオレットは思わず隠れようとした。
こんなところに来るのはノルディしかいないと咄嗟に考えたからだ。
ぼくが何も告げずノルディの元を去ったこと、さぞかしノルディはご立腹だろうと思った。
頭にノルディの強烈な雷が落ちてきそうで、ヴァイオレットはぶるぶると震えて頭を両手で守っていた。

人影は廃屋に近づいてきた。・・というより、ごんべえがその人影に挨拶をしてしまったのだ。
(あう、もう終わりです、ノルディさんの鉄槌でぼくは天使たちに引き戻されて、自由が奪われて、またあの日常が・・)
・・つんつん。何かが頭を刺激してる。ヴァイオレットの頭を。
「ぎゃああああっっ!!!!?」
思いきり悲鳴を上げて仰け反るヴァイオレット。

見上げると2つの影が・・一つは・・・もちろんごんべえだが、
もうひとつは・・・?・・・・・??

「・・・ノルディ・・・さん、・・・・・あれ?」

ノルディを想像して見上げた先に立っていたのは、ノルディとは全く似つかない体型の人物だった。
ひょろんと細長く、奇妙な挙動の男。
―――――あれ、この人、見覚えが・・・。

「お久しゅう。」
「何か怖いことでも?」
2人が同時に喋った。ちょっと混乱気味のヴァイオレット。
確かこのひょろんとした男は、以前廃屋の瓦礫の下に埋もれてた・・あの、謎の人物。
極楽地獄のことを知っていた、明らかに挙動不審な男。
ヴァイオレットが男を前にして言葉に詰まっていると、
ごんべえと男が会話を始めた。とても他愛の無い雑談を。
食べ物に困っているのかとか、このへんに詳しいか、とか、なんかそんな話。
そして、どうして廃屋に来たかという話になった。
男の方は、無くしたものを探しに来たと言った。
ごんべえは極楽地獄の手掛かりを探しに来たことを告げた。
男は苦笑し、そんなものは無いと言った。
その後、男は廃屋の中の品物を慣れた手つきで選り分けて行く。
そこにあった物を見てぶつぶつと呟きながら。
ヴァイオレットとごんべえはしばらくそれを見守っていたが、
ヴァイオレットは男を見ていて、あることに気づく。

「あ、・・あの。」
「はいィ?なんでショ?」
「・・・まさか、この変な模様の意味、判るんじゃ?」
「うン?この文字のことですかな?」
「・・・・文字?」

男が言うには、これは古い古い文字らしい。
ここらへんに描かれてある模様はどれも、誰かが遠い昔に書き残した文字なんだとか。

ヴァイオレットはぱっと目の前が開けた気がした。
今まで閉ざされていたものが、可能性が、手掛かりが、一気に目の前に来たような気がしたのだ。
そして興奮気味に、色んな文字を男に読んでもらった。
手当たり次第にそこら中にあった物を渡していった。
あるものは他愛もない日記で、あるものは愚痴や不満、あるものは詩みたいなもの。
またあるものは、誰かに宛てた文章だった。
しかし、そのどれもが、ヴァイオレットにとって期待するような情報では無かった。
ごんべえはヴァイオレットの横で彼とは対照的に、うんと感動していたみたいだが。
段々と、その辺にあった物も読まれ尽くして、
ヴァイオレットは肩を落とし始める。
男も少しウンザリ気味だ。
それでもと、ヴァイオレットはしばらく粘ってみたが、やはり有用な手掛かりは得られなかった。
男にも疲れの色が見えていたし、今日はこれでお終いにしようと思った。
廃屋を抜け、歩きにくい瓦礫の上を、項垂れながらゆっくり歩くヴァイオレット。
その覚束無い足取りのせいで、瓦礫と瓦礫の隙間に足をすくわれた。
「あ。」
ぐきっ、と鈍い音がして、ヴァイオレットは瓦礫に足を埋めた。
斜め48度の絶妙な角度から瓦礫に滑りこみをし、後ろにいたごんべえと男が心配して駆け寄ってきた。
ヴァイオレットはうずくまったまま立ち上がらずにグジグジしている。
彼の悪い癖のひとつ。すぐしょげるのだ。そして心配されると甘えてしまう。

2人がすぐにフォローに入ったが、ヴァイオレットは中々立ち上がろうとしない。
ノルディがいたら一番嫌うであろう展開だ。
ムツッとへそを曲げてしまっているヴァイオレットにごんべえが手を近づける。
一瞬、手を差し伸べてくれたのかと思い、ヴァイオレットはぱっとごんべえの手の方を見てみると、
・・・ヴァイオレットに乗っかっていた瓦礫の中に、一つだけ、見た目の全く違う物が。
「これ、廃屋にあった物のひとつかな?」
ごんべえがそう言うと、男がそれを手にとって読み始めた。


「50年後の理想」

―――理想の世界。
全ての人が、飢餓から逃れ、
食べ物に困らず、孤独に苦しまず、諍いが無く、
肯定しあう世界。
差別がなく、偏見がなく、恐怖が無く、信頼がある世界。

病気がなく、情熱があり、未来があり、動く体がある。
人々の目は輝き、世界は活気に満ち満ちて、
あらゆる命と存在を尊重し、労る。


―――――理想の自分。
真の自分を取り戻し、悩むことなく、自身を、全てを信じられ、確信できる。
全ての人を苦しみから、地獄から、引っ張り上げて、救い出す。
どんな罵声にも傷つかず、光を見失わない存在。
未来を確信し、自分自身を確信し、嘗ての約束を果たす。
私は戻り、世界も元通りに。
そう本来の、姿に戻るだけ。

ありとあらゆる苦しみをこの世界から消す。
連鎖を消す。渦巻くあの黒い雲を消す。幾世代にわたって築き上げられてきたあの、
苦しみの連鎖を消す。


人々から偽りと仮初を取り除き、本当の安堵と幸福を。
恐怖を取り除き、生きづらさを捨て去る。
不信を取り除き、輝きに満ちた瞳を。
情熱を思い出し、活気あふれる世界を。
個性が色とりどりに輝き、至高のシンフォニーをこの世界に創造する。

私達すべての最終目的。

すべてが調和する。全ての個性が認め合い、愛しあい、調和する。
それで初めて生まれる最大最高のシンフォニー。完全調和。
渦巻く天界。
地球に生まれる楽園。

そう、それが、―――――極楽地獄。


ヴァイオレットはぼうっと、その読み上げる言葉を聞いていた。
聴覚は確かにその言葉を捉えているのに、五感は別世界に攫われたかのようになっていた。
読み上げられた言葉どおりの世界が目の前に広がり、ヴァイオレットを掠めながら流れ、そして過ぎ去っていく。
無数の粒、命からなる光り輝くものが、完全調和をなして世界に色とりどりの煌めきを木霊させるその壮大さは圧巻で、
ひとつひとつはものすごく小さいのに、その煌めき方が、調和が、とてつもなく強く美しく、はっきりと感じられ、
そしてそのひとつひとつが無限大に集約され莫大なエネルギーを世界に放つ、そんな様が目の前で繰り広げられていた。
白や金の光の渦が爆発するような大きなエネルギーとともに一瞬にして世界に広がり、浸透していく。
あまりの壮大さと莫大なエネルギーの嵐に、ヴァイオレットは我を忘れていた。

その壮大なる幻覚の響きが沈静化した後、はっと我に返ったヴァイオレット。
あたりを振り返ると、男が一人。そう、それはごんべえの姿だった。
もうひとりの男はすでに姿が見えなかった。
ヴァイオレットはまたしても、あのひょろ長い男に逃げられてしまったことをやっと認識した。

近づいたと思えば、逃げられる、求めるもの、真実、未来、希望。
ぼくはまだ、そこへ近づけてはいない。
そこへの鍵を、探している途中。

掴んだと思えば、手からするりと逃げられる。
ぼくが求めるもの。安穏とした場所。
懊悩無き世界。

ぼくが、差別されない、ぼくの居場所。
天界に存在するようで、実はいつも危ういぼくの居場所。
魔界にも存在するようで、でも実は存在しない、ぼくの居場所。

否が応でも耳にする、極楽地獄ということば。
極楽地獄は楽園?誰にとっての?

ぼくは、ぼくが存在できる、安穏の場所を築きたい。
もう、誰からも、追いかけられたり、蔑まれたり、白い目で見られたり、疎まれたり、・・・そんなのはもうたくさんだ。
ぼくは、すべての世界から逃げて、ぼくだけの居場所にたどり着くんだ。
人間界でも、魔界でも、天界でもない。どこでもない場所。







それはきっと―――――





薄暗さの中にほんのり光が残るその瓦礫の中で、
半天使は未だ見ぬ未来を模索しているのだった。



第四部:天と地の迫間へ←          →第六部:墜地の果てへ

緩歩のあしあと 《もくじ》
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